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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第112回・無駄な知識

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【閑話休題】第112回・無駄な知識

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-08-12 18:00:00]

【閑話休題】第112回・無駄な知識


▼昔、中学生だった頃、国語の先生が実に面白い、無駄な知識を授けてくれた。「命数(めいすい)」と呼ばれるものだ。一(いち)から始まって、桁がどんどん増えていくわけだが、百千、万、億、兆と、ここまでは中学生の私でも知っていた。しかし、その先があることは知らなかった。最終的には「無量大数」にまでたどり着く。逆に小数のほうも並べてみると、以下のようになる。

<一から上の桁>
無料大数(むりょうたいすう)
不可思議(ふかしぎ)
那由他(なゆた)
阿僧祇(あそうぎ)=「あそぎ」とも。
恒河沙(ごうがしゃ)=「こうがさ」とも。
極(ごく) =「きょく」とも。
載(さい)
正(せい)
澗(かん)
溝(こう)
穣(じょう)
杼(じょ)=「し」とも。
垓(がい)
京(けい)
兆(ちょう)
億(おく)
万(まん)
千(せん)
百(ひゃく)
十(じゅう)
一(いち)

<一から下の桁>
一(いち)
割(わり)
分(ぶ)
厘(りん)
毛(もう)
糸(し)
忽(こつ)
沙(しゃ)
渺(びょう)
逡巡(しゅんじゅん)
弾指(だんし)
虚空(こくう)
清浄(せいじょう) =「しょうじょう」とも。

▼無量大数は、10の68乗になる。逆に清浄は10のマイナス24乗だ。命数は、極限に近づけば近づくほど、仏教用語が多いことに気づく。インドでは、もっとあるようだ。たとえば仏教経典(華厳経の巻四十五、阿僧祇品第三十)では、こうした命数とは違う表記が出ている。それによると、最大の命数は「不可説不可説転」というもので、10の37218383881977644441306597687849648128乗だそうだ。まったく実用的ではない桁なのだが、そのあまりの巨大な数というものを示して、仏の功徳の大きさを表現したようだ。だから、桁の大きいものには仏教用語が多用されている。

▼私などは、中学(市立)でこんな話を教わり、強制的に覚えさせられた。九九と一緒である。歌のように、口を突いて出てくるまで繰り返し読んで覚えさせられたのだ。そのおかげか、半世紀以上経った今でも、そらで言える。だから、それが何の役に立つのだと言われても言葉に窮すのだが、実は教育というもの、とくに義務教育というものは、そういうものなのだ。

▼いまや、学校では大学受験に受かるような、実戦的な勉強を教えてもらえないということで、ひたすら塾へ、そして予備校へとなびく。あまりにもルーティーンワークに埋没してしまい、うるさいPTAの攻撃から逃れるため、教師もノープレイ・ノーエラーになってしまっているのは、近年に限ったことではない。

▼しかし、面白い無駄というものを、本当はもっと学校というところで教えていくべきなのだと思う。国家が行なう基礎教育というものは、そもそも実戦的に役立つことを目指していないし、目指すべきでもないと思っている。

▼たとえば、私は理数系が大の苦手である。だが、二次関数という概念、あるいはサイン・コサイン・タンジェントなどの三角関数という考え方、どこまで問題が解けるかどうかは別にして、そういう思考や論理が世の中に存在する、ということが分かればよいのだと思う。

▼逆に歴史が好きだったから、高校(県立)では、ときに先生が疲れたといって、「松川、おまえやれ」と、何時限か代わりに教壇に立たされたこともある。年表は、受験とは関係なく片っ端から、自然に覚えてしまった(今はさすがに忘れてしまったが)。だからといって、年号をそこまで詳細に覚えることに、いったい何の意味があるのだろうか。年表を見れば分かることだ。そうではなく、「そんな時代があった」ということを知っていれば良いのだ。

▼ちょうど命数を教わったとき、兆より大きい桁というものがあり、無量大数まで存在することを知った。これは当時の私にとって、「へえ」という小さな驚きだった。教育のツボというのは、この「驚き」に尽きる。そして、それまで未知だった、別の世界があるということを知れば良いのだ。教育だから一応各論までやるが、各論は最終的には分からずとも忘れてしまっても、一向に構わないと思っている。

▼これは、一時期流行した「ゆとり教育」とは違う。無駄な知識を、小さな驚きを、これでもかこれでもかと生徒に浴びせかける作業なのだ。分からなくても、丸覚えをしても良いのだ。いつかは、忘れる。忘れて良いのだ。ただ、「そういえば、そんなこと教わったな。これはあのような概念のことを言っているのだな」と、実社会に出たとき見当がつけばそれで良いことなのだ。

▼しょせん、学問ではない。勉強なのだ。生徒たちの世界観や視野というものを、できるだけ広げることが教育の本義だと思っている。それが機能すれば、生徒たちは興味を持つ。何より動機が重要なのだ。放っておけば安易に流れる青少年たちに、前向きなスタンスを持たせるのは、一にも二にも動機づけにほかならない。無駄な知識は、その動機づけに打ってつけであることが多い。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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