忍者ブログ

増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第113回・超訳 般若心経

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

【閑話休題】第113回・超訳 般若心経

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-08-13 17:30:00]

【閑話休題】第113回・超訳 般若心経


▼いったい誰が、こんな訳をしたのだろうか。あっぱれとしかいいようがない。下手な坊主に説教されるより、見事に般若心経の真髄を喝破している(と思う)。たまたま出会ったこの、超訳とも言うべきものは、おそらく本職の僧侶がつくったものではない。ヤンキーまがいの言葉づかいを敢えて使って、経典の論理を、分かりやすく超絶的な意訳をしているのだ。観音菩薩がこんなふうに話してくれた、という序文から始まる。

すっげえ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きるためのヒントだ。
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さもすべてはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世はぜんぶ思い過ごしなんだ。
痛みも悲しみも、実はからっぽなのさ。
そんなもの、はじめから無いんだよ。

こっちから見りゃ黒でも、あっちから見りゃ白なんだ。
でも、そこで悩むな。

苦を楽に変える事だってできる。
汚れることもありゃ、背負いこむ事だってあるさ。
だから抱え込んだもんを捨てちまう事も出来るはずだ。
この世がどれだけいい加減か分かったか?
苦しみとか病とか、そんなもんにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。
味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺れる心にこだわっちゃ駄目さ。
生きてりゃいろいろあるよ。
嫌な思いだって、うんざりするほどするさ。
でも、そんなもん、その場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねえ。
無理して暗がりを照らそうとしなくていいんだ。
灯りなんかいらねえさ。
見えない事を楽しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってやつなんだよ。

正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは、誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ。
苦しんで生きる必要なんてねえよ。
いっそのこと、楽しんで生きる菩薩になっちまえよ。

まったく恐れを知らなくなったら、きっとロクな事にはならねえけどな。
怖かったり、痛かったりするのだって、少しは生きていくのに役立つもんさ。
ありがたいことじゃねえか。もうけもんだと思え。
それが、無敵ってことさ。

花がそこに咲いてるってことは、それが必要だって証(あかし)なんだ。
おまえがここに生きてるってことは、それが必要だっていう証なんだよ。
それさえ気づけば、涅槃(ねはん)なんてどこにだってあるんだ。

嫌なことは、気のせいだと思って忘れろ。
苦しいと思ったら、これは幻だって思い出せ。
なんでだよ、って言いたくなるときは、それがヒントだって気づけ。
そうすりゃ、誰でも仏陀(悟った者)になれるんだぜ。

これから、般若(偉大な知恵)を言うからな。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい、こまかいことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったら、それで上等だろ。

今までの前置きは全部忘れてもいいんだ。
でも、これだけは覚えとけ。
気が向いたらつぶやいてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。

いいか、耳かっぽじってよく聞けよ。
そうすりゃ、すべては無駄なんかじゃないってわかる。
すべてはこの陀羅尼(やや長い真言)でキマリだ。

ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージーソワカー

心配するな。そうだ、おまえは大丈夫だ。

▼ギャーテー ギャーテー・・・。強いて訳せば、「智恵、智恵、完成された智恵、悟り、成就せよ」であろうか。この部分の陀羅尼(だらに)は、意味を思わずともよいとされている。音の響きを直感するために敢えて訳さず、ふつう陀羅尼のまま読まれる。そこに生まれる波動がすべてだ。般若心経は、理屈を述べているが、実は最後にあるこの陀羅尼を伝えたいだけのこと。般若心経が、ことさら理を述べる経典と違って、実戦的な呪文として用いられたのは、この最後の陀羅尼の部分があるためだ。ちなみに、陀羅尼とは、真言(マントラ)のやや長めの呪文と理解していただいてよい。

▼最後に、釈迦本人の言葉で締めとしておこう。もっとも、経典と言われるものは、釈迦が入滅(にゅうめつ)してから、何百年とたってから書かれたものばかりである。「妙法蓮華経」にしろ、「大般若経」にしろ、その意味では、偽経(ぎきょう)なのだ。

▼修験道の経文のように、神道と仏教がまぜこぜになったものを、学者は馬鹿にして後世つくられた偽経というが、そんな学者のほうがどうかしている。仏教の大宗派が根本経典としている4万8000あまりの経典群は、ほぼことごとく偽経である。釈迦本人の言葉というものは、おそらくほとんど含まれていないはずだ。『新約聖書』がイエスの直弟子たちによって、イエスの生前の言葉として語り継がれたのに比べれば、仏教の経典など、およそ「事実」とは程遠い。

▼実際のところ、入滅直後に編纂(へんさん)されたものというのは、わずかな断片的な詩句だけといっても過言ではない。それとて、釈迦の直接の弟子が語り伝えたものかどうか、疑わしい。しかし、偽だからといって、間違っているわけではない。釈迦は見事な花を咲かせて見せたが、持っている種子は、みんな同じなのだ。

▼その偽経だらけの中で、釈迦本人の言葉を伝えている「らしい」と思われる「法句経(ほっくぎょう)」という詩的な断片を集めたものから、一つ抜粋しておこう。

「一人で行くが良い。しのび寄る月のように。寄せてくる潮(しお)のように・・・」
釈迦はこむずかしいことは、何一つ言っていない。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




日刊チャート新聞のコンテンツは増田足のパソコン用ソフト、モバイル用アプリから閲覧可能です。

15日間無料お試しはこちらから
https://secure.masudaasi.com/landing/pre.html?mode=cs
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。