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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第114回・68年目の夏(前編)

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【閑話休題】第114回・68年目の夏(前編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-08-14 18:00:00]

【閑話休題】第114回・68年目の夏(前編)


▼もうすぐ、68年目の8月15日がやってくる。私は昭和20年のその日を知らない。伝聞や本、映像で追体験するしかない。別のコラムでまた改めて書こうと思うが、ここではいくつかその残像を描いてみようと思う。

▼当時を実際に経験している方は、人それぞれの「風景」が脳裏に浮かぶことだろう。私の母親は当時、女学校時代だったのだが、「これで今晩から、安心して夜灯りをつけることができる」とほっとしたそうだ。他愛のない思い出だが、裏を返せば空襲が終わった、ということであるから、その一言の重さは想像以上のものがある。実際、彼女は母親と妹の手を引いて、空襲の真っ只中、全速力で丘の上の神社まで走った経験がある。明け方、自宅に恐る恐る戻ってみれば、回りはすべて焦土と化していた。ところが、どういうわけか彼女たちの家だけは、まったく火の粉をかぶらず、一戸だけ残っていたという。

▼父親はというと、終戦直後、東京駅に立ったとき、八重洲方面がまったく焼け野原で、眼前にさえぎるものは何一つなかったという。そのすぐ先に海が広がっている風景を、声もなく、ただ呆然と眺めていたという。父は教師だったからか、結核を患ったことがあるためなのか、徴兵されるのが遅れた。当時は近衛歩兵第四連隊に所属して、九十九里浜で毎日タコツボを堀っていたそうだ。体に爆弾をくくりつけて、上陸してくるであろう米軍兵に抱きついて自爆するという訓練をしていた。終戦で除隊となり、東京駅についてみたら、そんな風景が広がっていた。東京の街がなくなっていたのだ。

▼空襲である。1944年(昭和19年)11月14日以降、東京は106回の空襲を受けた。特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日、5月25日から26日にかけての5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指す。単独の空襲の被害としては、世界史上最大の規模である(当日の死者数としては、広島をも上回る)。一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルを焼失した。なお、この作戦におけるアメリカ側の損害は、撃墜・墜落が12機、大破が42機だった。

▼父親の友人は、家族で東京の下町に住んでいたそうだ。彼の話によると、大空襲の日、共同アパートの二階から外を見ると、周囲はあっというまに焼夷弾によって火の海になった。アパートから、家々から人々が逃げまどっている。早く自分たちも逃げようと思っていたのだが、その時とんでもない光景を見てしまったのだという。

▼ある男性が、舗装道路の上を走っていた。左右の家々は、業火(ごうか)に包まれている。ある地点にさしかかったところ、突然その男性はぼっと燃え上がった。そして、倒れた瞬間、炭化してしまったそうだ。舗装道路がすでに、熱したフライパン状態になっていたのだ。父の友人は、その惨劇を見て退避をあきらめた。死ぬなら、ここで家族いっしょに死のうと覚悟を決めたそうだ。幸い、逃げなかった彼の家族だけは無事に朝を迎えることができた。逃げた人たちは、地理的状況から考えておそらくほぼ全滅したのではないか、と話していた。

▼この東京大空襲は、米空軍カーチス・ルメイ少将の発案による、大規模な「無差別爆撃」の計画だった。戦後、本人は「我々は日本に降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」と述懐している。一方で、「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた・・・」とも語っている。ルメイの前任者であるハンセル少将は、あくまでも「軍事施設に対する精密爆撃」にこだわった。このため解任され、無差別爆撃を主張したルメイが後任に抜擢されたことは、日本にとって悲劇だった。

▼このルメイだが、1964年(昭和39年)に勲一等旭日章の叙勲を、第1次佐藤内閣が閣議決定している。当時非難の声があがり国会でも追及されたが、当時の佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然。大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答えている。

▼ならば、改めて問う。その「功績」とはなんなのか。この意味不明の勲一等授与だが、天皇が自ら直接授けるのが通例である。しかし、昭和天皇はルメイと面会しようとしなかった。天皇の国事決定は内閣が行なうが、天皇には新憲法下では拒否権がない。しかし、昭和天皇は憲法違反を犯してまでも、拒否したことになる。その思いは、痛恨の極み以外の何ものでもなかったろう。

▼実は、米軍はさらにマスタードガスやホスゲンなどの生物化学兵器を効率的に散布する計画も立てていたが、日本の降伏で実行には至らなかった事実がある。もし実行されていたら、広島・長崎以上の重大な被害と問題を、後世に残したことだろう。

(明日の「後編」に続く)

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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