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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第115回・68年目の夏(後編)

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【閑話休題】第115回・68年目の夏(後編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-08-15 17:45:00]

【閑話休題】第115回・68年目の夏(後編)


▼日本でも米国本土空襲や、生物化学兵器など、あらゆる軍事技術が研究されていた。戦前からその存在が封印されていた「陸軍登戸研究所」(通称)は、その代表的なものだ。正式名称は「第9陸軍技術研究所」。1939年(昭和14年)に設立された。場所は小田急線の生田である。

▼戦後、登戸研究所跡地は民間に払い下げられ、慶應義塾大学工学部が使用していたが、慶應義塾大学が日吉キャンパスの復興にともなって移転したため、1950年(昭和25年)に11万坪のうち3万坪余を慶大が明治大学に生田キャンパスとして払い下げた。現在、明治大学生田キャンパス内に当時のものを資料館として展示してあり、見聞することができる。

▼同年8月15日、敗戦が決定すると、陸軍は、すべての研究資料の破棄を命令した。また、ほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。登戸研究所関係者がアメリカ軍に協力し、横須賀基地内の米軍印刷補給所で、偽造印刷の技術を使い、共産圏の各種公文書の偽造を行なっている。この「偽札製造技術」は、戦時中、中華民国内に大量の偽札を流通させ、超インフレを引き起こして政府の財政破綻を狙ったものだ。

▼登戸研究所というと、俗に言う731部隊と混同されがちで、人体実験を行なったような誤解があるが、まったく別物である。ただ、登戸で何が本当に行なわれていたか、いまだに正確なところは明らかになっていない。また、所員が大陸に出張して捕虜や死刑囚に対して人体実験を行なったという告白などもあり、その信憑性については議論が分かれたままで判然としない。

▼ただ大変有名なのは、米国本土空襲計画である。いわゆる風船爆弾だ。和紙とこんにゃく糊(のり)から造られる風船爆弾はその名の通り、動力を持たない気球を風に乗せて敵地へと放つ。太平洋戦争の末期、アメリカ本土を直接攻撃する「決戦兵器」として登戸研究所を中心に開発が行なわれ、1944年秋から45年春にかけて放たれた。

▼秘匿名「ふ号」作戦である。密かに爆弾や焼夷弾を装着した約9000個の気球が発射され、基本的には、山火事程度の被害だったが、その心理的影響は大きかった。パールハーバー奇襲によって、米国本土に日本軍が上陸してくるのではないか、という不安が国民の間に募っていただけに、風船爆弾とはいえ、本土への直接攻撃であるからショックが大きい。米国では、厳重な報道管制が布かれ、ラジオ、新聞、雑誌等に箝口令(かんこうれい)が敷かれた。したがって、戦後も噂話程度で詳しいことはあまり語られていない感がある。

▼冬期八千メートルから一万メートルの上空を吹く偏西風に乗って、この決戦兵器は時速二百キロ以上のジェット気流に乗り、太平洋を飛翔してアメリカ本土を直撃した。
登戸研究所の風船爆弾開発の最高責任者であった草場少将は、「風船爆弾は戦力としてはほとんど認むべき効果はなかった」ことを素直に認めている。しかし、その被害は、アラスカ、カナダ、アメリカ本土からメキシコにいたる広範囲に及んでいた。

▼合衆国西海岸オレゴン州の40件を筆頭に、モンタナ州で32件、ワシントン州で25件、カリフォルニア州で22件、ワイオミング州、サウスダコタ州、アイダホ州が8件ずつ、あとは6件以下であったが、すべての州に最低1件の着地、山火事を起こすなどの被害が出ている。カナダでは、西海岸ブリティッシュ・コロンビア州の38件を筆頭に、その他40件近くの風船爆弾が到達していた。アリューシャン列島をふくむアラスカでは30件を数えた。

▼米国では、この風船爆弾に細菌兵器が使われているのではないか、ときわめて深刻に受け止める局面もあったようだ。実際に細菌兵器の散布ということを日本側がやっていたら、広島・長崎の原爆投下や、各県庁所在地への無差別空襲など、米国を非難することなど到底できる筋合いではなかったろう。結果として日本は、風船爆弾に細菌兵器を用いていなかった。

▼しかしながら、日本が行なった山火事程度の空襲に対して、その報復が膨大な人命を失う日本全土への無差別空襲であったとすれば、あまりにも均衡の取れない戦闘計画だったということが分かる。

▼いずれにしろ、日本が受けた空襲の衝撃は、一般国民が味わった中でも、戦闘意欲を致命的に削ぐ効果を持った。本来、8月15日は敗戦記念日である。それがいまだに「終戦記念日」とされているところに、「いつの間にか、戦争が終わった」という暗意がこめられている。だれの責任も問わない、そのあざとい態度の表れとも言える。

▼しかし、極度の敗北感に打ちひしがれた日本人にとって、文字通り「敗戦」という言葉は、立ち上がれないほどのダメージを増幅させたかもしれない。ぎりぎり「終戦」という言葉が、あの極限状態を乗り切るわずかな心の糸であったかもしれないのだ。いまや、68年前の出来事を知る語り部は、人口比で少数派である。映像や書物ではない、生の記憶を聞いておくのに、そう長い時間は残されていない。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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