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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第117回・近くて遠い国

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【閑話休題】第117回・近くて遠い国

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-08-19 17:45:00]

【閑話休題】第117回・近くて遠い国


▼近くて遠い国の一つが、中国だ。かつて、戦前、上海には東亜同文書院という学校があった。1901年(明治34年)に、当時清朝支配下にあった中国・上海に設立された日本人のための高等教育機関である。日本人が海外に設立した学校の中でも古いものに属する。1939年(昭和14年)には、私立制大学になった。もともとは、近衛篤麿(貴族院議長、東亜同文会会長)の「アジア連帯」という精神に、当時清朝の劉乾一両江総督が共感して、書院設立を認可したことに始まる。

▼建学の精神は、「中外の實學を講じ、中日の英才を教え、一つは以って中國富強の本を立て、一つは以って中日揖協の根を固む。期するところは中國を保全し、東亞久安の策を定め、(中略)中國学生には日本の言語、文章と泰西百科實用の學を、日本學生には、中英の言語文章、及び中外の制度律令、商工務の要をさずく。期するところは各自通達強立、國家有用の士、当世必需の才を為すに有り」となっていた。

▼政治科、商務科、農工科などがあった。授業は、基本的に北京語によって行なわれた。卒業論文のため、「大旅行」も制度化されていた。学生たちは中国全土を旅行して見聞を広めたが、中国に限らず、東南アジアなどにも対象地域を拡大していった経緯がある。

▼心ある中日の青年たちが、この東亜同文書院に集い、両国発展の礎(いしずえ)たらんとした熱気に溢れた学校だったが、当然ながら日本の敗北によって、敷地などは中華民国に接収され、廃校となった。当時の学長らが日本において、再び東亜同文書院の再興を試みたが、GHQによって、その「名称」からクレームがついて実現できなかった。このため設立される運びとなったのが、「愛知大学」だ。

▼苦肉の策で外地から引き上げてきた、多くの教育関係者や学生たちを収容する目的としてGHQの承認を得たが、愛知大学設立当初の教職員の大半が、東亜同文書院関係者だった。東亜同文書院時代に始められた「中日大辞典」の編纂(へんさん)も、愛知大学によって引き継がれ、中国語を学ぶ日本人の誰もが使用している辞典として、現在に至っている。

▼当時上海は、イギリス租界、フランス租界のほか、各国混在の共同租界があり、日本からはパスポートなしで行ける唯一の外国地域だった。魔都とも呼ばれた上海は、当時アジア最大の国際都市だった。そこに日本の大学があったのだ。国内の各府県選抜の公費派遣生や私費生の、多くの俊英がここに集った。そして、日中間の不幸な関係にもかかわらず、学生たちは青春を大陸で生き抜いたのだ。その衝撃的な幕切れのために、「幻の名門校」とも呼ばれる。約半世紀、およそ5000人の学生が飛び立っていった。中国人学生は、このうち数百人に留まるが。

▼「日中共存共栄」を理念とする東亜同文書院だが、時代は設立直後の日清戦争以降、まったく逆の方向へと流れていった。卒業生たちは世間から日本のスパイを養成する学校とか、帝国主義・日本の手先といったような、理不尽な偏見を受けた。しかし、学生たちは決して声高に反論せず、行動によって、その「証」を残そうとした。

▼日中戦争が激化し始めてからは、公然と「日帝打倒」を掲げる中国共産党の学生党員が8名、また共産党の下部組織である中国共産主義青年団の学生が30名余も学んでいた。当時、東亜同文書院の学生数は400人だから、その1割が中国共産党系の学生だったことになる。もちろん、国民党に関係していた学生は、もっとたくさんいたはずだ。交戦相手の学生を募集して“留学”させるなんて事例は、かつてない。

▼魯迅(ろじん)も然り、いわゆるリベラルな知識人や左翼学生が、“日帝”の学校である東亜同文書院へ積極的に集まったのには訳がある。同院の図書館が、日本ではとっくに発禁となっていた社会主義の本、マルクスやレーニンの書籍も自由に読めたのだ。そして、日本の学校では考えられない「社会主義研究会」や「マルクス経済学研究会」などのサークルを作っては、反戦活動へと参加していった。

▼東亜同文書院は、学長自らが日本政府の中国大陸のとめどもない侵攻を止めさせようと交渉しているし、大戦末期には日本政府のほうが、蒋介石政権との講和交渉を東亜同文書院を通じて模索した経緯もある。

▼東亜同文書院最後の学生である44回生の人たちですら、すでに80歳半ばを過ぎているだろう。イデオロギーや、信条は違っていたとしても、それぞれの日中両国・アジアに対する熱い思いには、変わりはなかったはずだ。実業界、学界、ジャーナリズム、政界などに飛躍していった多くの卒業生が、1972年の日中国交回復につながる大きな道筋をつけていったことは間違いない。今の、この日中間の確執を、東亜同文書院卒業生たち(多くが鬼籍に入っている)が見たら、いったいどういう思いを持つだろうか。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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