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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第132回・セピア色の記憶〜昭和33年という時代(前編)

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【閑話休題】第132回・セピア色の記憶〜昭和33年という時代(前編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-09-09 17:45:00]

【閑話休題】第132回・セピア色の記憶~昭和33年という時代(前編)


▼2020年、第32回オリンピック開催地に、東京が決まった。意外に醒めた目で見ている人も多いが、誰がなんと言おうとこのインパクトは大きい。おそらく、何よりも大きいのではないだろうか。

▼何も、計量経済学的な試算において経済インパクトがあるということではない。それはかつての、第18回東京オリンピックと比べれば、国全体へのインパクトはずっと小さいことだろう。しかし、経済効果を3~4兆円と試算する専門家が多いが、どこを押せばそんな数字が出てくるのか不思議でならない。副次的な効果は、いくらなんでももっと大きいだろう。

▼しかし、第二の敗戦ともいわれる、20年も続いたデフレ経済の閉塞感の末のことだ。ようやく安倍政権が本腰を入れて動き出した今、ここで東京オリンピックが決まったというのは、何をおいてもその心理的インパクトは絶大であろう。ちょうど昭和20年の敗戦から立ち上がろうとしていた時期、そして昭和39年の東京オリンピックに向け、「戦後復興」から「成長加速」へと沸きあがっていったタイミングとどうしてもオーバーラップする。

▼大きく時代の流れが変わったかつての「昭和33年」に、今、私たちは再び立っているのかもしれない。敗北主義に打ちのめされた日本人に、ふたたび“ブルドック精神”が宿ると、そう思いたい。

▼それは、もしかしたら、前回の東京オリンピック前後の時代を知っている世代だけが感じるものなのかもしれない。あの「熱にうかされたような時代」を覚えている人間には、当時の記憶がまざまざと蘇り、感無量の人も多いのではないだろうか。

▼1964年(昭和39年)の東京オリンピックによって、東京の風景は一変した。それで良かったことも、悪かったこともたくさんある。しかし、それが時代というものだ。そしてオリンピックを契機に、日本が成長軌道を驀進していくのだが、実はその前から助走段階があった。

▼その起点とされているのが、オリンピックから遡ること6年、つまり昭和33年( 1958年)である。映画『Always 三丁目の夕日’64』を観た人なら、「昭和33年」という時代を懐かしく思い出すことだろう。知らない世代には、ある種独特の、異様にして不思議な時代に写るかもしれない。

▼そもそも日本の戦後復興の最初のきっかけとなったのは、言うまでもなく昭和25年( 1950年)の朝鮮戦争だ。昭和30年( 1955年)に休戦となるまで、戦後の復興の第一ステージがここで終わった。それでも、まだここかしこに焼け跡は残っており、足がかりをつかんだだけの状態だったといっていい。貧困は、圧倒的に蔓延していた。

▼しかし、そんな中で、政府は翌昭和31年( 1956年)の経済白書において「もはや戦後ではない」という宣言を発し、持続的な成長軌道へ激しい執念を見せた。成長加速の「のろし」が上がったのだ。これが、すべての始まりだった。

▼ちょうど、東京オリンピックの前年(昭和38年・1963年)に『鉄腕アトム』と『鉄人28号』が、テレビ・アニメとして相次いで放映され始めている。『鉄腕アトム』は昭和26年( 1951年)、『鉄人28号』は昭和31年( 1956年)に漫画本としてすでに誕生していたが、この偉大な二つのアニメ・キャラクターが、本から映像へと転進していく変化に、すべてが仮託されているといってもいい。ゼロからの再出発ではない。敗戦による、あらゆるマイナス状況からの再出発だった。その起点が昭和33年という年なのだ。

▼国民はこの年から、かつてない豊かさに向かうスピード感を、皮膚感覚で認識し始める。空前絶後の「岩戸景気」の幕開けだ。それが昭和33年という年だった。第18回オリンピックが東京に決定したのは、その翌年である。昭和33年の物価を調べてみると、葉書が5円 、バスの乗車賃が15円、銭湯代は16円、 床屋の料金は150円、かけそば1杯 25円、牛乳 14円、生ビール1杯 80円、食パン1斤 30円 、たばこ1箱 40円、映画1本 150円。そして、大卒の初任給は、平均1万3467円だった。

▼その頃の平均寿命は男性65歳、女性69.6歳。厚生省が「栄養白書」の中で日本人の4人に1人が栄養不足であると発表している。テレビはまだまだ高嶺の花で、14インチのテレビは、今の物価にすれば、ゆうに100万円を超える。いかに高値の花であったか分かるというものだ。それがこの年、ようやく100万台を突破したものの、その普及率はわずかに10.4%。どこの家にもあるような代物ではなかった。ランニングシャツと短パン姿の私は、駅前の電気屋に群がる大人たちに混じって、力道山の空手チョップに歓声を上げていたクチだ。小学校に入る1964年(昭和39年。東京オリンピック開催年)直前まで、このような状態だった。

▼確かに、岩戸景気の到来で、物価は昭和33年から39年にかけて、うなぎ登りとなっていった。かけそばは50円になり、ビール一杯が115円、映画は350円となっていった。しかし、渋谷の駅前にはまだ傷痍軍人の姿があったし、都内は路面電車が網の目のように走っていた。ボンネットタイプのバスが普通で、エンストを起こしては、そこから降りて歩くなどということも日常茶飯事だった。

▼昭和33年の翌年には、『少年マガジン』が創刊されているが、私の記憶では1号当たりずっと30円だった。母親のガマ口から30円を盗んで買いにいっては、家に帰るや布団叩きでさんざん打ちのめされた覚えがある。一方、家の外にも、あちらこちらに小うるさい目付け役のオヤジがいて、いたずら坊主は他人の子だろうと関係なく、こっぴどく叱られたものだ。子供の親のほうも、それに文句をつけたりしない。それが普通だった。昭和33年以降、東京オリンピックの昭和39年までというのは、まだそういう時代だった。

(明日の「後編」に続く)

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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