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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第133回・セピア色の記憶〜昭和33年という時代(後編)

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【閑話休題】第133回・セピア色の記憶〜昭和33年という時代(後編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-09-10 18:00:00]

【閑話休題】第133回・セピア色の記憶~昭和33年という時代(後編)


▼とくに起点となった昭和33年には、象徴的なさまざまな出来事があり、画期的なものが生まれている。長嶋茂雄が巨人軍に入団し、野球の神様・巨人軍の川上哲治が現役を引退した。ずっと後に、巨人軍監督になる原辰徳が生まれたのもこの年だ。

▼日清食品創業者の安藤百福が、「即席チキンラーメン」と銘打って、世界初のインスタントラーメンを世に出したのもこのときである。当初一袋35円だったが、すぐに30円に値下げし、10年間30円だった。

▼同じ年、売春防止法施行。 いわゆる「赤線」が廃止された。「赤線」などと言っても、今の人には、とんと分からないだろうが。そのほか、富士重工業が「スバル360(通称てんとうむし)」を発売し、本田技研工業が「スーパーカブ」を発売。空前のモータリゼーションのさきがけとなった。朝日麦酒が日本初の缶入りビールを発売。汽車に乗れば、トンネルの直前に窓を閉めないと、車内中が石炭の煙でえらいことになった。当時の汽車の窓は、上に持ち上げて開けるのではなく、下の戸袋に落として開けるのだった。そんな時代だ。

▼テレビでは、『月光仮面』『事件記者』『バス通り裏』『サンヨーテレビ劇場 / 私は貝になりたい』が放映された。給食といったら、脱脂粉乳にコッペパンと相場が決まっていた。たまに出る鯨の竜田揚げだけが楽しみだった。ほとんど唯一に近い動物性蛋白源だったといっていい。脱脂粉乳は、小型のドラム缶のようなものから汲んで、アルマイトのお椀に注いでもらって飲むのだ。学校を病欠すると、帰りに友達が必ず我が家に寄ってくれた。かさかさに乾いたコッペパンも、新聞紙にくるんで持ってきてくれたものだ。なぜか、マーガリンは途中でいつもくすねられたが。

▼しかし、なんといっても、この年の記念碑的なシンボルは、東京タワーの完成だったろう。そして、この翌年(昭和34年)、今上天皇皇后両陛下の御成婚とあいなる。この御成婚の生中継を観るため、一気に高値の花だったテレビの普及に火がついた。もちろん、その5年後には、東京オリンピックが迫っていたことが大きい。冷蔵庫(当時3万円)、洗濯機(当時7万円)なども、同時に家庭の中に浸透し始めた頃だ。都内の要所では、オリンピックで外国人が入ってくるかもしれないといって、汲み取り式便所だったものが、強制的に水洗便所に切り替えられていったところもある。

▼代々木公園一帯は、終戦直後は米軍将校たちの住宅となっていたが(終戦までは、陸軍代々木連隊演習場)、オリンピック開催に向けて、米軍関係施設が郊外に移され、同公園はご存知オリンピック競技場へと生まれ変わった。都内をうねっていた数多くの運河は埋め立てられ、橋が消え、首都高速が張り巡らされていった。どこへいっても、取り壊しと建設現場の土ぼこりが舞っていた。東京都内でさえ、目抜き通りをちょっと入れば、未舗装の泥道だったものが、またたくまにアスファルトに変わっていった。

▼昭和33年という年は、敗戦(昭和20年)からわずか13年。ボクシングで言えば、最終ラウンド( 14回戦)目にして、満身創痍の日本がついにリング上で、もう一度立ち上がった瞬間だ。そこから、猛烈な連打を繰り返して逆襲に転じる。そして、1964年(昭和39年)に、ついにクライマックスがやってくる。「夢の超特急」新幹線の開業と東京オリンピックの開催という、まさにヘビー級ストレートの炸裂だった。

▼同時に、猛烈なインフレがやってきた。日本中が、みなバンスキング(借金王)だった。それを、まさに自転車操業で駆け抜けた。借金した人間こそが勝ちだった。所得は倍増に倍増を重ね、寸暇を惜しんで馬車馬のように働いた。落伍者をかまう余裕すらない。当時、池田首相でさえ、「貧乏人は麦を食え」などと暴言を吐く始末だった。走り続けることに必死で、国中にひずみや、ゆがみを省みる余裕すらなかったのだ。それでも日本人は、ひたすら走り続けた。

▼それは、誰もが前だけを見つづけ、誰もが「明日はきっと今日よりもいい日になる」、と信じていたからだ。あの時代から、実に56年の時を経て、2020年に再びオリンピックが東京に戻ってくる。当時の日本人の多くが、それこそはちきれそうな野望を胸に、夢中で日々を走り抜けて行った感動は、長いことセピア色の記憶の中に忘れさられていた。

▼あの時代を知らない世代が、そうした躍動感のいくばくかでも抱くことができるようにと、心から願う。そして、日本は未だに日が昇る国なのだと信じられる日々を過ごしていきたい。「二度目の敗戦」といわれる90年代を経て、今、そのチャンスが来ようとしている。

▼岩戸景気がスタートした、昭和33年初頭の日経平均は470円前後だった。ここから、東京オリンピックが開催される昭和39年には1200円台となり、このブル相場は昭和41年の1400円台まで爆走した。当時の第18回東京オリンピック招致が決定したのは、昭和34年( 1959年)5月26日のことだった。岩戸景気にとって、東京オリンピックはまさにターボチャージャーの役割を果たした。

▼そして、今は「90年暴落」( 1990年)から23年、最初の金融恐慌( 1997年)から16年。最後の銀行恐慌( 2003年)から10年。もはや、とうに時間一杯だ。2020年まであと7年。「もはや戦後ではない」から、合言葉は「もはやデフレではない」へと合言葉が切り替わるなら、それは今しかない。第二の「昭和33年」を私たちが生きているのなら、私はあのセピア色となった夢を、もう一度原色のまま見てみたい。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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