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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第150回・アングロサクソンのリアリズム

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【閑話休題】第150回・アングロサクソンのリアリズム

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-10-07 18:30:00]

【閑話休題】第150回・アングロサクソンのリアリズム


▼明治維新以降、日本は西洋列強に追いつくために、ありとあらゆるものを西洋から導入した。まず、言葉の変革がそうだった。もともと、「道」という概念もあったし、「徳」という概念もあった。しかし、国民国家に馴染む「モラル」という概念はなかった。このため、これに見合う言葉として、貴族院議員で思想家の西周(にしあまね)が考えついたのが、「道徳」という言葉だった。

▼幕末には長州の奇兵隊で、「政治」「政党」「議会」という言葉が生み出されたのに続き、明治維新後は、「自由」「平等」「社会」「経済」「民主主義」と、新しい日本語がどっと世の中に飛び出していった。

▼このように、いま私たちが普通に使っている言葉の多くが、明治維新前後に新たに生まれている。後に中国や朝鮮でも、この時代の日本人がつくり出した「造語」が輸入され、現在でも似たような言葉が彼の地でも使用されている。

▼それにくらべると、市場や相場に関する言葉はもっとずっと古く、江戸時代の真っ最中に堂島あたりですでに使われていた。「頭取」などという言葉も、江戸時代からあったそうだ。堂島では、とうに相場用語として、「往って来い」「しっかり」「つれ安」「つれ高」「もみ合い」「あく抜け」「しこり」などという言葉が用いられていたようだし、「日足」などという罫線用語もすでに存在していた。驚くべきことである。ある意味、日本人は経済という、きわめてリアリズムがモノを言う世界に、古くから長けていたのだ。

▼しかし、このリアリズムは、明治時代が進行していくにつれて、どういうわけか消え失せていった。まだこれが生きていたのは、日露戦争くらいまでだ。よく考えてみれば、幕末、徳川幕府はフランスと近く、薩長は英国に近かった。この英仏流のものの考え方は、明治時代初頭あたり前まではまだ生きていたのだが、幕府が費(つい)えると、フランス流は失速していく。英国流は、海軍が力を維持していたことと、日露戦争までは日英同盟が国を支えていたことから生き延びたが、けっきょくそれ以降は、ドイツ流に飲み込まれていった。

▼要するに、立憲君主制を旨とする大日本帝国は、英国流よりもドイツ流のほうが、為政者にとって都合が良かったのだろう。しかし、これは大きな間違いだったかもしれない。ドイツというのは、ご存知のように、原理原則主義の概念が強い文化を持っている。だから、ドイツ流を地で行った六法全書を見ても分かるように、日本の法律の名前は原理原則をそのまま表現しているものが圧倒的に多い。それだけを見たら、何を定めてあるのか詳細がよく分からない、ということが結構ある。

▼ところが米国法は、名前を見ただけで具体的にどういう状況について、どういう風に定めている法律かが、一目で分かる。確かに長たらしいが、「何のための、何に関する、何を定める法律あるいは条例」といったような具合だ。これがドイツ流だと、「何とか法」の一言で済まされてしまう。

▼昨今のユーロ圏内における、頑迷なドイツの「財政健全主義」一本槍のようなスタンスは、はっきりいって、現状打開の足かせにしかなっていない。なかなか「変わらない」、「変えようとしない」ドイツの性格というものが、よく現れている。

▼では、フランス流はどうなのか。これまた、理想主義的に過ぎるのだ。さすがに革命の国というだけあって、イデア(理念)先行型の思想文化だとも言える。だから、ときにあまりにも現実から遊離した、極端な決断や傾向にかたよる癖がある。車の製造一つ見てもそうだ。

▼だいたい車というものは、運転したことのない車であっても、運転席に座っただけで、本来そこにあるべきものが目に飛び込んでくる。サイドブレーキ、ウィンカー、イグニッション・キー等々。しかし、フランス車(たとえばシトロエン)だけは勝手が違う。ふつうそこにあるはずべきものが、フランス車にはない。面食らうのだ。発想が、明らかに世界の常識から乖離してしまっている。

▼これにくらべて英国流は、要するにアングロサクソン流ということなのだが、きわめてリアリスティックだ。先の法律で言えば、英国においては確かに法律、条文というものはあるにはあるのだが、きわめて判例法の色彩が強い。条文そのものよりも、実際の裁判による判決が、法としての有効性を発揮する。時代時代、あるいはその案件によって、「正義」が変わっていく可能性が潜在しているわけだ。環境に合わせて「法は変わる」という大前提がある。

▼このアングロサクソンのリアリズムは、既成の概念や権威というものをとりあえず棚上げしておいて、今、実際に有効な選択肢を優先させようとする。たとえば大航海時代、七つの海を支配していたスペイン海洋帝国に対して、エリザベス一世のとき英国が取った選択とは、さんざん貿易を阻害していた海賊を、なんと「私掠船(しりゃくせん)」として認めたことだ。私掠船とは、戦争状態にある政府から、その敵国の船を攻撃し、船や積荷を奪う許可・免許を得た個人所有の船である。

▼「カリブの海賊」と呼ばれているが、その主勢力は、スペイン、フランス、オランダなどで数多く跳梁跋扈した。そのような海賊を、英国海軍へ事実上、「組み入れる」という恐るべきリアリズムによって、英国は最終的に大西洋を制圧した。スペインの無敵艦隊撃滅を転機として、ついに日の沈まない大英帝国が誕生する。

▼キャプテン・ドレークなどは、その代表的な例である。アルマダ海戦( 1588年)では、この海賊は英国艦隊の副司令官(提督)であり、スペインの無敵艦隊撃滅の功労者でもある。「サー」の称号さえ、与えられている。本名は、サー・フランシス・ドレークだ。

▼こうした英国流のリアリズムは、先述したように、日露戦争における日英同盟にもよく出ている。すでに大英帝国は、あまりにも強大な力を持っていたことから、どこの国とも軍事同盟を結ばない「栄光ある孤立」を謳歌していた。が、ロシアの南下政策を阻止するために、あろうことか、チョンマゲの時代からわずか30年あまりしか経っていない、極東の野蛮人国・日本と、国是を曲げて軍事同盟を結ぶという挙に出た。

▼日露開戦前から、日本海軍に軍人を送り込んで指導につとめ、諜報機関を使ってあらゆるロシアの動静を日本に流した。バルチック艦隊が欧州からアジアに向けて進発すると、寄港地に当たる英領植民地へ補給するための立ち寄りをことごとく拒否しては、妨害工作につとめた。「栄光ある孤立」をかなぐり捨てたこの大英帝国の振る舞いは、驚嘆に値する。実際、当時の日本の政治家たちでさえ、まさかあの「大英帝国」が、弱小国日本などと対等な軍事同盟を結んでくれるなどとは、思ってもいなかった。

▼米国も、この大英帝国のリアリズムという遺伝子を受け継いだことは間違いない。しかし、これらアングロサクソンのリアリズムを、日本は日露戦争以降、学ぼうとはしなかった。このアングロサクソンから離れ、ドイツに傾斜していったことは、日本にとって大きな錯誤だったとしか言いようがない。

▼いま聞けば、医者が書くカルテは、ほとんど英語らしい。昔はドイツ語と決まっていたものだが、時代は変わる。再び、アングロサクソン流のリアリズムというものに、回帰しつつあるのだろうか。だいたい、日本はドイツと手を握って良かったことなど一度もないのだ。

▼逆に、アングロサクソンと良好な関係を保っているとき、日本は絶好調だった。それは政治的、軍事的、経済的に密接なつながりを持つべきだという以前に、より現実的でベターな結果を出そうとするアングロサクソン的な発想を重視することこそ、何より重要だということを示しているような気がする。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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