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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第155回・関所破り

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【閑話休題】第155回・関所破り

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-10-15 18:30:00]

【閑話休題】第155回・関所破り


▼最近では、時代劇というものもあまり見かけなくなったのだが、昔の時代劇にはたいてい「関所破り」の話が出てきたものだ。関所は、ご存知のように、江戸幕府や諸般が定めた、軍事・警備上の必要から設置されたものだ。

▼世に有名なのは箱根の関所だが、中山道の碓氷関や福島関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関なども知られている。不思議なことに、これらはみな幕府直営ではない。近隣の大名や旗本などに業務委託されていたものだ。関所の番人は陪臣(ばいしん=家臣の家来)身分ではあったが、通行手形の吟味(検査)という業務のほかに、ご祝儀名目で事実上の通行料を取ったりして、えらく権勢を誇ったらしい。

▼「入鉄炮出女(いりでっぽう・でおんな)」と言い、江戸に入ってくる鉄砲と江戸から出て行く女性は、関所で特に厳しく吟味された。「入鉄炮」は江戸での軍事活動を遮断したものであり、「出女」は江戸在住の大名の妻らが連絡役として密かに領国へ帰国し、国許で反乱の段取りを整えたりするのを阻む狙いがあった。両者にはそれぞれ、「鉄炮手形」と「女手形」が義務づけられていたが、芸人や力士などは、「通行手形」の代わりに芸を披露することで良しとされた場合も多かったそうだ。その意味では、かなりの手抜きである。

▼ただし、関所破りは重罪とされ、破った者は磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処せられた。あらゆる死刑となる罪状のうち、最も重罪とされたのがこの関所破りである。現在、箱根の関所跡にある記念館には、斬首が上晒されている刑場の古い写真なども展示されている(もっともこれは、磔刑ではなく獄門晒し首であるから、関所破りを働いた罪人のものではない)。しかし、実際には関所の役人も関与した、宿場ぐるみでの関所破りが常態化していたという。

▼ここで勘違いしやすいのは、その「関所破り」の意味である。ついつい、「関所破り」というと、あたかも白刃を抜いて、叫びながら関門を表正面から突破、走り抜けることのようなイメージを思い浮かべるが、そんな馬鹿なことをした人間はまずいない。

▼「関所破り」というのは、関所を通らず(つまり、正規の手続きを経ずに)、裏山の間道や獣道(けものみち)を抜けて、通過してしまうことだ。要するに、抜け道をたどって他国に抜けることである。その言葉の放つイメージとは違い、けっこうコソコソしたものだということになる。

▼たとえば、上州に、侠客で有名な国定忠治(長岡忠次郎)がいた。「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を斬る」と詠われた、あの侠客である。中風を患い、跡目を子分に譲った後、関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)によって捕縛され、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博打、殺人、殺人教唆ほか、さまざまな罪状はあったが、最も重罪とされたのは碓氷関所の「関所破り」だった。

▼国定忠治は、嘉永3年( 1849年)12月21日、上州で磔刑に処せられた。享年41。

▼ちなみに、この「関所破り」、記録は意外に少ない。江戸時代を通じて、5件6人だけだそうだ。その秘密は、「薮入り」と呼ばれる温情措置にあった。とくに未遂だった場合などに多く適用されたらしく、「薮入り」つまり、道に迷っただけという解釈だ。藩境からの追放処分で済ませていたという。これは、小田原藩・箱根関所独特の政策らしい。それほど交通量が多かったためとも言えるかもしれない。いちいち処罰していたら、関所が死体の山になっていたところだろう。

▼ところで、江戸時代という長い間に、堂々と関所のど真ん中を突破したとんでもない人間が一人いる。幕末の長州藩士・高杉晋作である。いわゆる“学生ゲバルト”だったわけで、文久2年12月、伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)ら同士たちと、品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼き討ち。小塚原・回向院に墓標もないまま埋葬されていた、師である吉田松陰の遺体を掘り起こし、世田谷の長州藩別邸に改葬(現在の松蔭神社)。この途中、将軍しか通ることが許されていなかった上野寛永寺の神聖な御成橋を、番士の制止を槍で排除しながら、強引に馬で通ってしまった。

▼この過激派を、江戸に放っておいたら、何をするかわかったものではないと、国許の政庁では高杉に帰国を命令。文久3年( 1863年)、江戸を出発した高杉は、その帰路、箱根の関所を、駕籠(かご)に乗り打ちして刀を振り回し、人夫たちを励ましながら、強行突破してしまったのだ。司馬遼太郎の『世に棲む日々』によれば、「ここは天下の大道である。幕法こそ私法である。私法により人の往来を妨げるは無法である」と怒号したそうだ。いずれの「事件」も長州の危険分子によるものだということは幕府方に知れていたが、不問に付された。260年間、江戸時代を通じて、関所を正面突破した男はこの人物だけである。

▼この男、よほど変わっている。京都では、折りしも徳川将軍家茂が上洛中だった。賀茂神社へ行幸する天皇に供奉していのだが、その長い行列の間、当然ながらみんな路肩に平伏して頭を上げずにいた。高杉は将軍が目の前を通る段になると、いきなり表を上げ(これだけで、「打ち首もの」であった)、あたかも芝居の役者に向かって声をかけるように、「よおうっ、征夷大将軍!」と叫んだそうだ。高杉も、いっしょにいた伊藤たちも、蜘蛛の子を散らすかのごとく、尻に帆をかけて一目散に逃げたそうだが。いたずらにしても命がけだ。

▼当時すでに、幕府の権威は音を立てて崩れつつあったとはいえ、とんでもないことをする男である。国定忠治が、碓井関所を破った罪で磔刑に処せられてから、高杉の箱根関所破りまでわずか14年。時代はあっと言う間に変わる。当時、高杉は24歳。

▼関所という、日本の近世を象徴するこの存在を、衆目の真っ只中で、ものの見事に破壊して見せたこの男は、まさに道を近代に切り開く革命のために生まれてきたのかもしれない。その後、高杉はあまりにも凝縮された老年を送り、肺結核で逝くまで、その命はあとわずか4年しか残されていなかった。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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