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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第161回・鉄道の話

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【閑話休題】第161回・鉄道の話

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-10-23 18:30:00]

【閑話休題】第161回・鉄道の話


▼旅行気分を味わうのなら、やはり汽車だろう。今は、電車しかないが、それでも、車のドライブや飛行機を使うより、よっぽど旅情を感じる。ただ、なにせせわしない現代人は、より利便性の高い車や効率化を考えて飛行機を使う。これはこれで仕方がないし、それなりの風情を楽しむこともできる。

▼しかし、時間がたっぷり取れるのなら、やはり鉄道の旅行をしたいものだ。このほど、九州で博多発着の「ななつ星」が運行を開始した。最高級のコンパートメント(DXスイート・3泊4日コース)は2人1室利用で約113万円だそうだ。羨ましいかぎりである。

▼思えば、昔は修学旅行でも会社の出張などでも夜行列車を使ったものだが、日本で最初に寝台車が登場したのは、明治33年( 1900年=日露戦争の4年前)、山陽鉄道(現在の山陽本線)が急行列車を京都-三田尻(現在の防府)に走らせたのが最初らしい。

▼ちなみに、日本初の夜行列車が運行を開始したのは、明治22年7月1日で、新橋-神戸間を20時間以上かけて走ったという記録がある。夜行列車のピークは、1963年から64年にかけての東海道本線だった。だが、夜行列車が重宝されたのも新幹線が運行される前までで、その後は衰退の一途を辿った。

▼この日本の鉄道の正確さは、世界的にも比類がないほどらしい。かつて、経済開放間もない中国( 1980年代)に出張していた頃、私はひたすら現地の夜行寝台を使って全土を移動していた。なにしろ、飛行機が怪しかったのだ。まず、まともに定時で離着陸したためしがない。おまけに、ジェット機が増えていたから、より恐怖が募った。ソ連製のアントノフであれば、プロペラであったから、エンジンが止まっても滑空しながら不時着できる。が、ジェット機だったら、一巻の終わり。実際、ジェット機の墜落事故は、炭鉱の落盤事故と同じくらい多かった。

▼出張の折、同じ寝台の上下のよしみで知り合った初老の中国人男性と、長い時間話をしたことがある。彼は、中国の鉄道に勤務している人だった。日中友好ムードが最高潮だった時代だけに、彼も研修で日本の国鉄でお世話になったといっていた。彼曰く、あまりに日本の鉄道が正確無比であるのに、驚嘆したと絶賛していた。今、中国の鉄道では時刻の正確さはどうなっているのだろうか。さすがに電子制御が進んでいるだろうから、かつてのような滅茶苦茶なことはないだろう。

▼ただ、この鉄道に関して、一つだけ悔しいことがある。それは、日本の鉄路の幅が、標準軌道だということだ。標準などといっても、それは日本国内だけで通用する言葉であって、世界的には狭軌鉄道なのだ。鉄道線路の場合、標準軌より広い軌間(レール内側の間隔)を「広軌」、狭いものを「狭軌」と呼んでいる。世界の主流は、世界基準の標準軌道か、あるいは広軌鉄道になっている。

▼わが国にも狭軌鉄道は存在するが、全国で4路線しかないという。有名なのは、黒部川沿いに宇奈月温泉駅と欅平駅を結ぶ黒部峡谷鉄道だ。元々は、関西電力が黒部第4ダムの建設資材を運ぶために建設されたもので、切符に「命の保証はしない」と断り書きをした上で、一般乗客を乗せていたこともあるそうだ。あとは、近鉄四日市から延びる近鉄内部線と、内部線から分岐する八王寺線、そして、近鉄から移譲された三岐鉄道北勢線が現存するのみだ。

▼広軌鉄道の代表格と言えば、ご存知新幹線だが、それ以外にも次第に普及しつつあるらしい。ただ、圧倒的に日本式の標準(つまり、世界的には狭軌)鉄道が多い。日本では長らく、幅1,067mmのものを「標準軌」と呼んでいたが、海外では1,435mmこそが「標準軌」なのだ。

▼そもそも、イギリスの技術を導入したわが国の鉄道で、イギリスの標準的な軌間が採用されなかったのは、要するに、「日本は国土が狭いから線路幅も狭くて十分」というのが理由だったらしい。日本人がそう判断したのか、英国人がそう判断したのか、それは分からない。いずれにしろ、最初から「世界的な標準軌」を採用していたら、日本の鉄道の歴史も大きく違っていたかもしれない。

▼不思議なことに、満州で日本が経営していた南満州鉄道は広軌だった。国内で広軌鉄道が作れなかった鬱憤を、植民地で晴らしたということなのか。それとも、ロシア人が最初から広軌で作っていたのだろうか。

▼ちなみに、鉄道の旅の醍醐味の一つに駅弁がある。日本で一番最初に駅弁を販売した駅は、「宇都宮駅」だったそうだ。1885年(明治18年)に白木屋が販売を始めた。駅弁は「汽車弁当」という名であった。竹の皮に、梅干入りのおにぎりと沢庵が入っていた昔ながらの弁当は、5銭だった。

▼明治末年を基準として、現在までの物価変動は、およそ1000倍。明治6年から現在では8300倍。ざっくりとした単純計算だが、5銭だった駅弁は、50円から415円の間の価格帯ということになる。なんとなく、妥当な感じがする。汽車の中で、美しくも清貧の日本を旅しながら、5銭のごく簡素な汽車弁当を食する。どう考えても美味かったろうと、舌なめずりをしてしまう。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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