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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第175回・日本は朝鮮半島で何をしてきたか(後編)

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【閑話休題】第175回・日本は朝鮮半島で何をしてきたか(後編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-11-13 18:30:00]

【閑話休題】第175回・日本は朝鮮半島で何をしてきたか(後編)


▼かつて朝鮮植民地に在住していた韓国人・日本人たちは、いまやかなりの高齢になっているが、その実体験からは当時の日常が垣間見える。反日的な「生き証人たち」の言葉が独り歩きしているのだから、バランスをとるために事実を述べる「生き証人たち」の言葉を紹介しておきたい。ここでは、『生活者の日本統治時代』(三交社)から引用してみよう。インタビュアーは、日本に帰化した呉善花(オソンファ)女史である。

▼この呉善花女史は、韓国生まれの、軍人出身だ。生粋の反日教育を受けた世代である。ところが、彼女は軍を辞め、日本に留学してから次第に考えが変ってきたという。教えられた反日の歴史と、実際の日本との間のギャップが大きすぎると痛感したようだ。今では、親日的な本を出しているために、韓国では売国奴扱いである。上記の本の中には15人の、高齢の「朝鮮経験者」が談話を残している。以下は、そこからの引用である。

◎生まれも育ちも朝鮮の新義州(今日の北朝鮮北部)という林健一氏によると、「日本人による朝鮮人差別ということは、まったくありませんでした。学校で生徒同士は完全に対等で、上級生の朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、『お前は服装がなっていない』とか説教することなんかがたびたびありましたね」

◎日本統治下のソウルで青春時代を過ごした吉田多女史は、こう語っている。「近所の子どもたちともよく遊びました。仲のよかった思い出がいっぱいで、朝鮮人と日本人の間でいじめたりいじめられたりといったことは、本当に見たことも聞いたこともありません。……朝鮮はとても治安がよくて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いたこともありません。……横暴なふるまいなど一切ありませんでした。…創氏改名(日本人名を名乗ること)を強制的にさせたとも言われますが、私のまわりの朝鮮人はみな終戦までずっと朝鮮名のままでした。」

◎同じく、日本による朝鮮統治時代を体験した韓国人の朴承復氏も、こう述べている。
「学校では日本人生徒たちからも先生からも、差別されたことはありませんでした。……今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話したがります。……今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいます。商業学校の恩師は、とても尊敬できる方でした。松尾先生は、国語の先生でした。この先生は韓国人、日本人にかかわりなく尊敬されていました。……卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けたことはまったくありません。……行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲良く楽しく遊んで過ごしました。日帝時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見たこともありません。……多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことはなかったです。当時の日本人は本当に質素でした。……私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした。」

◎ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植氏は、こう語っている。「私は個人的には日本人と仲がよくて、悪い感情はありませんでした。日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、何か嫌がらせをやられたとかいったことは、個人的には見たことも聞いたこともありません。……神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが。」

◎日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、三千人の韓国人孤児を育てた日本人・田内千鶴子さんの生涯を描いた監督・金洙容氏は、次のように話す。
「農場の日本人たちはとても勤勉でした。日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。……日本人の経営する農場には、韓国人たちもたくさん働いていました。日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わないようなことはまずしません」

◎新義州の中学や高校に通っていた李萬甲女史は、身近な日本人について述べている。
「朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にしてもらいました。日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。創氏改名は昭和一五年からのことでした。私の周囲では、ほとんどの人が変えていましたね。……しかし、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類のことは日本人はまったくしませんでした。日本人は法に反することをしないようにと、非常に気をつかっていました。」

◎朝鮮総督府の警察幹部だった坪井幸生氏は、かつて朝鮮で共に働いていた多くの朝鮮人と、深い友情を持ち続けているという。
「彼らとは今も、本当によい気分で話ができるのです。こういう私たちの関係を、『日本は悪いことをした』式の見方をする人たちは、どうみるのでしょうか。日帝時代に、日本が朝鮮に対して悪いことをしたのであれば、警察部長をやっていた私などは、その悪の最大のものと言われるでしょう。そうであれば、彼らがつき合ったりするはずがありません。」

◎昭和一八年から朝鮮総督府で働いていた、工藤真澄氏の見方はこうだ。
「朝鮮総督府には、朝鮮人の職員も多く、朝鮮人とは同じ役人として一緒にすわって仕事をしていましたし、朝鮮人課長の下に日本人課長補佐がいることもありました。そういうなかで、とくに日本人と朝鮮人がぶつかり合うようなことは見たことも聞いたこともありません。……日本人が特権的に振る舞える条件などまったくありませんでした。」

◎阿部元俊氏は、大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人だ。文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのだが、従軍慰安婦問題に関する質問に、こう答えている。
「日本人が朝鮮の田舎に行って、若い娘たちを奪ってきたと言われますね。そんなことはあり得ないです。もしそんなことをしたら誘拐犯ですし、懲役刑を受けることになります。いや、法律の問題以前に、村の人たちにめちゃめちゃにやられてしまいますよ。
またそんなことがあれば、必ず私の耳にも入ってきたはずです。でも、そんな話も噂も一度も聞いたことがありません。
警察署長も朝鮮人でしたし、裁判所の判事、検事などにも朝鮮人がいました。朝鮮総督府では、局長、部長、課長にも朝鮮人がいました。もちろん警察官は、朝鮮人だろうと日本人だろうと同じ権限を持っていました。
そういう状況下で女狩りが堂々と行なわれ、一人として問題にする者がいなかったなんて、あり得ないことです。全人口の1%にすぎない日本人が、そんなに悪いことをして安全に生きられたわけがないんです」

◎また阿部氏は、戦時中の徴兵についてはこのように話している。
「昭和18年に、学徒動員となり、日本人学生たちは強制的に呼び出されて戦地に向かいました。……そんなときでも、大部分の朝鮮人は戦地に行く必要がありませんでした。正直な話、朝鮮人がうらやましかったですよ。『これは差別じゃないか』と言ったりもしたもんです。朝鮮人までが徴兵されるようになったのは、昭和19年4月からのことでした。……自ら志願して戦地に行った朝鮮人たちもたくさんいました。しかし、志願ではなく戦死した人たちもいますし、それを思うと本当に心が痛みます」

▼日本が敗戦を迎え、朝鮮から日本人たちがみな去っていったとき、ひとりの人物が韓国へ戻ってきた。彼の名は李承晩(イスンマン)。彼は、それまでハワイにいたが、アメリカから韓国初代大統領の座を与えられ、韓国を支配するようになった。

▼もともと熱烈な反日主義者だった李承晩は、日韓併合時代中、ずっとアメリカに亡命していたので、朝鮮における日本統治を体験していない。彼は日本統治を知らないのだ。その彼が、韓国初代大統領の地位につくと、親日派の人々をすべて追放し、もはや反日でなければ韓国では生きられないようにした。家庭でも学校でも職場でも、親日的発言はすべて禁止され、日本の悪口だけが許されるようになった。虚偽と捏造によりゆがめられた歴史観が学校で教え込まれ、少年少女は、すさまじい反日教育の中で育てられていったのだ。

▼初代から3代目までの大統領となったこの李承晩は、日本統治時代の朝鮮を容認する思想を持った者や発言した者に対して徹底的な投獄・拷問・処刑を行なった。 大韓民国成立後の2年だけで、政治犯として投獄された者の総数は日本統治時代の全投獄者数を超えた。このときから、昭和8年の世論調査とは打って変わって、朝鮮半島は一気に、半ば強制的に反日国是が金科玉条となったといってもよい。親日的な、あるは客観的に日韓関係を見ることができる世論というものは、すべて個人の記憶の中に潜伏し、公に表現される機会を失った。
今も北朝鮮、および韓国には言論の自由はない。そして客観的な歴史教育もない。

▼日本は莫大なお金をつぎ込んで、朝鮮を近代国家に変えていった。たとえば朝鮮に造られた水力発電所、水豊ダム。当時出力世界2位のダムで、朝鮮及び満州の電力をまかなった。日本が朝鮮半島でやったことを、総括的に、具体的に、きちんと検証するという日は、韓国に果たして来るのであろうか。今の彼らを見ているたびに、絶望という二文字しか浮かんでこない自分がいる。

▼最後に、韓国人がもし真摯に自分たちの歴史を見直そうとするのなら、朴正煕第五代~第九代大統領をいったいどう評価するのかが一番分かりやすく、そして大きな課題だろうと思う。酒を飲んで気分が良くなると日本の軍歌を歌い、日本の政治家たちとは、流暢な日本語で会談した。一方では李承晩以来の反日教育を維持するという、矛盾を孕んだ人物だ。夜は親日、昼は反日とも評される。そしてその人物こそが、漢江の奇蹟の時代を引っ張った立役者だ。日本から膨大な資金援助を引き出し、一気に韓国の高度成長を成し遂げた偉人である。しかも、その日本の援助は、一切国民に知らせることをしなかった。今でも、日本の援助だったことを知らない韓国人は多い。彼はその「選集」の中で、こう述べている。

「わが民族史を考察してみると情けないというほかない。われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである。今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである。四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である。」

▼あるとき、福田赳夫が訪韓した際に、双方の閣僚交えての宴席で、韓国側から日本批判が飛び出した。すると、朴大統領はそれを制してこう言った。

「自分は、日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」

▼また、石原慎太郎氏が訪韓した際にも似たような場面があり、かなり酒席の雰囲気が険悪になりかけた。朴大統領は、若い韓国の閣僚をなだめて、やはりこう言ったそうだ。

「しかしあのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択したのだ。」

この矛盾に満ちた反日大統領は、現在韓国では、独裁者としての批判にさらされている。加えて朴正煕は、日本統治時代における対日協力者・親日派として、親日人名辞典(親日人名辞典編纂委員会編)の第1回リストに記載された。韓国で、「親日」とは、「売国奴」の意味である。この人物なしに、戦後の韓国の独立維持と成長はあり得なかったろう。では、あなたたち(韓国人)は、この人物をどう評価するのだろうか。一度、納得のいく回答を聞かせていただきたい。

増田経済研究所

「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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