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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第211回・ヴェノナ文書〜なかったことにしたい真実(?) 後半

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【閑話休題】第211回・ヴェノナ文書〜なかったことにしたい真実(?) 後半

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-01-09 18:46:00]

【閑話休題】第211回・ヴェノナ文書~なかったことにしたい真実(?) 後半

本日の『閑話休題』後半です。

▼一方、日本外務省はと言えば、アメリカでの反日活動の背後にアメリカ共産党・コミンテルンの暗躍があることを正確に分析していた。若杉要(わかすぎ かなめ)ニューヨーク総領事は1938年(昭和13年)7月20日、宇垣一成(うがき かずしげ)外務大臣に対して、「当地方ニ於ケル支那側宣伝ニ関スル件」と題する機密報告書を提出、アメリカの反日宣伝の実態について次のように分析している。

《シナ事変以来、アメリカの新聞社は「日本の侵略からデモクラシーを擁護すべく苦闘している中国」という構図で、中国の被害状況をセンセーショナルに報道している。・・・共産党は表向き「デモクラシー擁護」を叫んで反ファシズム諸勢力の結集に努めており、その反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている。アメリカ共産党の真の狙いは、デモクラシー擁護などではなく、日米関係を悪化させて支那事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすることだ。》

若杉総領事はこう述べて、近衛内閣に対して、「ルーズべルト政権の反日政策の背後にはアメリカ共産党がいる」ことを喝破・強調し、共産党による日米分断作戦に乗らないよう訴えたのだ。

▼ルーズべルト政権はその後、反日世論の盛り上がりを受けて1939年(昭和14年)、日米通商条約の廃棄を通告。日本はクズ鉄、鋼鉄、石油など重要物資の供給をアメリカに依存しており、日本経済は致命的な打撃を受ける可能性が生まれてきた。

▼つまり、ルーズべルト政権の反日政策に反発して、もしも近衛内閣が反米政策をとるならば、結果的に「スターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだ」と、若杉総領事は訴えたのだ。しかし、その声に、近衛内閣は耳を傾けなかった。なぜなら、近衛首相もまた、周囲をがっちりとコミンテルンの工作員たちによって、固められていたのである。

▼そもそも、近衛文麿(このえ ふみまろ)という人物は、皇室に最も近い公家出身であり、世間知らずの名門富裕階層にありがちな、プロレタリア革命への心理的な同情という致命的な性格的欠陥に冒されていた。東大卒業後、京大に飛んだ理由も、社会主義学者・河上肇(かわかみ はじめ)に師事するためだったくらいだ。

▼左翼的であることがインテリであるかのような妄想が、この時代にはあった。戦後ですら、ずっとその風潮は続いていた(アメリカでも「物分りの良い」リベラルであることが、インテリの証かのような風潮が現在も一般的である)。この結果、近衛は数多くの左翼運動家と関係を持つことになる。その延長線上に、尾崎秀実(おざき ほつみ)やゾルゲが登場してくるのだ。

▼若杉総領事の報告書が届いた翌日、近衛内閣は、すでに政策顧問として重用していたゾルゲ・グループの尾崎秀実ら「昭和研究会」メンバーの影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要項」を閣議決定する。そして、翌1941年4月13日には日ソ中立条約を締結するなど、あろうことかソ連と連携しながら反米政策を推進していった。このゾルゲ、尾崎らがソ連コミンテルンに加担していたスパイであったことは、米国資料を待たずとも、はっきりしている。その後スパイ容疑で逮捕されたときの尾崎の「イデオロギーに殉じる」という自信に満ちた、2時間以上にわたる誇らしげな調書によって、それは明白な事実である。

▼ちなみに、ナチスとソ連のダブルスパイだったゾルゲは、最終的にはソ連の工作員となっている。ノモンハン事変で、日本軍部はソ連軍に敗退したと「錯覚」したため対ソ強硬論が消えうせ、南進論に転換していった(『第191回 定説を疑え~失敗の本質』を参照)。このことをソ連に連絡し、「日本に北進の意図なし」という確信を、スターリンに与えたことは有名である。スターリンはこのゾルゲの連絡で、後顧の憂いなく、対ドイツ総力戦を模索していくことができるようになったのである。

▼尾崎秀実の裏の顔は、中国共産党シンパの米女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレー(代表著作『中国の歌ごえ』)と親交を持った、筋金入りの共産主義革命家である。戦後、スメドレーが尾崎の刑死を知り、「私の夫は死んだのね」と泣いたそうであるから、男女の仲でもあったようだ。このスメドレーがコミンテルンであったことは言うまでもない。尾崎は、コミンテルンの方針通り、日本を戦争にあおり、米国との総力戦に誘導し、日本や中国で共産主義革命が勃発するように仕向けようとした。そのために使った擬態が、「極右的」なイデオロギーの主張だったのである。

▼尾崎の表向きの言説を振り返ると、あたかも愛国、右翼、軍国主義そのものである。以下の通りだ。

「蒋介石政権は、軍閥政治であり、相手にする必要はない。」《「中央公論」1937年(昭和12年)7月号》

「(中国との戦争は)局地的解決も、不拡大方針も、まったく意味をなさない。中国との講和・不拡大方針には絶対反対。日中戦争の拡大方針を主張する。」《「改造」同年9月臨時増刊号》

「日本国民に与えられている唯一の道は、戦いに勝つということだけだ。他の方法は考えられない。日本が中国とはじめたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかない。・・・中国との講和条約の締結に反対する。長期戦もやむをえず、徹底抗戦あるのみ。」《「改造」1938年(昭和13年)5月号》

▼日本を戦争へ、戦争へと煽り立てていった当時の「右翼」たちの中には、相当数、こうした共産主義者たちの「擬態」があった可能性が指摘されている。たとえば、戦前、もっともこうした過激な大陸侵攻論を主張していたのは、メディアの中では朝日新聞である。社内にこうしたコミンテルン、あるいはコミンテルンのシンパがいたとしても、なんら不思議ではない。戦争直後、朝日新聞が手のひらを返したような、左翼的な論調に早がわりしたことこそ、その傍証であろう。

▼共産党機関新聞の「赤旗」ならまだ良い。旗幟(きし)鮮明だからだ。しかし、美辞麗句で擬態をつくり、実はその本質が母国を貶(おとし)め、危機に陥れ、共産化させようなど、当時の言葉で言えば「売国」のそしりを免れないだろう。

▼この正真正銘の共産主義者・尾崎秀実の、「右翼・愛国的」人士としての「擬態」は完璧なものだった。裏の活動については、同僚はもちろん、妻さえ、まったく気づくことはなかったのだ。尾崎の例を長々と紹介したが、こうした類いの工作員やそのシンパは、恐るべきことに陸軍参謀部内にもいたのである。(了)

(明日の「?」に続く)

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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