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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第212回・ヴェノナ文書〜なかったことにしたい真実(?)

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【閑話休題】第212回・ヴェノナ文書〜なかったことにしたい真実(?)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-01-10 18:35:00]

【閑話休題】第212回・ヴェノナ文書~なかったことにしたい真実(?)


▼世論は、こうしたコミンテルンの策動により、「支那撃つべし」に沸き立ち、そもそも不拡大方針であったはずの近衛内閣は、驚くべきことに「蒋介石政府を相手にせず」という声明を発表した。石原莞爾(いしはら かんじ)など陸軍内部における中国との和平派の試みを、ことごとく打ち砕いていったのである。

▼近衛は自分が行なったこと(中国や米国との全面戦争に日本を導いたこと)、知らず知らずのうちに「乗せられていたこと」に気づいたときには、すでに遅かった。終戦直前、1945年(昭和20年)2月14日、昭和天皇宛に出した「近衛上奏文」には、尾崎など自分が重用した優秀なブレーンたち(そろいもそろって愛国的で、対中国主戦派とされていた)が、ことごとく共産主義者であったことに、あまりの驚きと慙愧(ざんき)の念に耐えない、という心情を吐露し、懺悔・陳謝している。

▼そればかりか近衛は、すでに政府、官僚、軍部の内部に相当数の共産主義者が潜伏しており、国策を日本破滅→共産主義化への策謀が進んでいるということに、重大な警告を発した。終戦直後、近衛は敗戦という結末の発端となった自分のすべての政策責任に耐えられなかったのであろう、服毒自殺している。

▼実際、終戦間際の陸軍参謀部の中には、あろうことかソ連に対中・対米講和の仲介工作を持ちかける動きが実際にあったし、戦後の日本社会は共産主義をモデルとすべきだと、公言した参謀すら本当に存在したのだ。

▼終戦内閣首相・鈴木貫太郎(すずき かんたろう)の秘書官を務めた松谷誠(まつたに まこと)陸軍大佐が、昭和20年4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』では、「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる。戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだ」としている。

▼同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝(たねむら さこう)大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、「?米国ではなく、ソ連主導で戦争終結。?領土を可能な限りソ連に与え、日本を包囲させる。 ?ソ連、中共と同盟結ぶ。」となっている。軍部の上層部にソ連の工作が浸透していた目を疑うような驚くべき事実が、ぼろぼろと出てきているのだ。戦争末期、混乱と危機感の中で、彼らはとうとうその本性を現し始めていたわけだ。

▼さて、一方の当時の米国に再び戻ろう。ヴェノナ文書の暴露によると、ルーズべルト大統領は1941年(昭和16年)3月、ラフリン・カリー大統領補佐官を蒋介石政権に派遣し、本格的な対中軍事援助について協議。そして翌4月、カリー大統領補佐官は、蒋介石政権と連携し、日本本土を約500の戦闘機や爆撃機で空爆する計画を立案。JB355と呼ばれる、この日本空爆計画に対してルーズべルト大統領は7月23日に承認のサインをしている。

▼日本が真珠湾攻撃をする9ヶ月前に、ルーズベルト大統領は対中軍事援助に動き出し、4ヶ月以上も前に、日本爆撃を認可していたことになる。戦争に向けて、明確なアクションを取ったのは日本ではなく、アメリカだったことが明らかにされている。日本の最高指導部が、「帝国国策遂行要領」を御前会議で決定したのは、11月5日である。それでもまだ「要領」によって、11月一杯までは、対米交渉の努力をすることが義務づけられていた。

▼真珠湾に向けて出撃する連合艦隊が択捉島の単冠湾に終結したのは、11月18日である。ぎりぎりまで、日本の戦争指導部は、戦争回避の道を閉ざしていない。元来主戦派の東條首相ですら、そうであった。真珠湾攻撃が「だまし討ち」ではないことが、これで明らかになったと言ってもよい。

▼エドワード・ミラー著『日本経済を殲滅せよ』によれば、同年7月26日、財務省通貨調査局長のハリー・デクスター・ホワイトの提案で在米日本資産は凍結された。日本の金融資産は無価値となり、日本は実質的に「破産」に追い込まれたのだ。それだけではない。ホワイトは財務省官僚でありながら、同年11月、日米交渉に際して事実上の対日最後通告となった『ハル・ノート』原案(満州事変前の状態に戻れという内容。一切の譲歩なし)を作成し、東條内閣を対米戦争へと追い込んだ。考えてみてほしい。ハル国務長官の所管である外交判断に、それも戦争を挑発する内容の重大通告書を、なぜ部門違いの財務省の、たかが局長が作成できたのか。しかも、ハル当人でさえ、この原案を読んで、顔色を失ったくらいだ。

▼ヴェノナ文書によれば、これら反日政策を推進したカリー大統領補佐官もホワイト財務省通貨調査局長も、ソ連・コミンテルンのスパイであった。かくして1941年(昭和16年)12月、日米戦争が勃発した。真珠湾攻撃の翌日の12月9日、中国共産党は日米戦争の勃発によって「太平洋反日統一戦戦線が完成した」との声明を出している。アメリカを使って日本を叩き潰すというソ連・コミンテルンの戦略は、21年後に現実のものとなったわけだ。

▼以上のように、近年、ヴェノナ文書やコミンテルンの公式文書、日本外務省の機密文書などが公開されるようになって、コミンテルンと中国共産党、「ソ連のスパイ」たちを重用したルーズベルト政権が戦前・戦中、そして戦後、何をしたのかが徐々に明らかになりつつある。戦争に突入していった日本外交だが、実は政府や軍人たちの多くは、不拡大方針だったのである。

▼満州事変の張本人である石原莞爾関東軍参謀でさえ、「対支那では即時講和し、満州に引っ込む。対米開戦必至などという妄言は捨ておけ。勘違いするな。敵はソ連だ」と軍内部で声高に訴えていたくらいである。あの石原の声でさえ、かき消されてしまったのだ。

▼1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして(これも、若き日の中国共産党元国家主席・劉少奇による謀略であることは、本人が生前自慢していたくらいだ)、泥沼の日中戦争が始まった。現地軍は松井特務機関長の奔走で停戦協定を締結し、戦争不拡大を確認したにもかかわらず、近衛は11日、朝日新聞などの報道陣、政党代表、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の首脳を招いて「北支派兵声明」を発表し、現地軍の停戦努力を台なしにしてしまった。

▼同じ11日に石原は、近衛に日中首脳の直接会談を提案した。泥沼化する日中戦争を直ちに止めるためには、日中首脳による一挙打開しかない、と判断したためだ。しかし、この石原提案に広田弘毅外相は熱意を示さなかった。近衛は南京行きを最終的には決意して、飛行機まで手配した。だが、直前になって心変わりをして、蒋介石との首脳会談を取り消した。石原は激昂し、「この危機に優柔不断とは。日本を滅ぼす者は近衛である」と公言して憚(はばか)らなかった。

▼石原はこの後、戦争拡大の勢いの中で「不拡大」に固執し、そのために失脚する。それでも石原はあきらめなかった。太平洋戦争開始以降、最終的には戦争の即時停止のため、東條首相暗殺まで計画するが、決行当日、東條内閣総辞職で不発に終わっている。日本は、この石原の例を見ても分かるように、まともな見識を持った軍人はいくらでも存在した。しかし、それにもかかわらず、不思議なことにそれこそ坂道を転がり落ちるように、全面戦争へと突入していったのだ。あの異様な流れの謎は、ヴェノナ文書を読めば、かなり理解することができる。

( 14日の「?」に続く)

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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