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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第223回・駄目な稽古と下手な稽古

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【閑話休題】第223回・駄目な稽古と下手な稽古

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-01-28 18:45:00]

【閑話休題】第223回・駄目な稽古と下手な稽古


▼なんでもそうだが、練習する場合、それが練習になっていない、ということがある。やり方が間違っているのだ。だから、いくら練習しても、上達もしなければ、成果も出てこない。

▼ある居合いの達人に言わせると、「駄目な稽古」と「下手な稽古」ということらしい。駄目な稽古はいくらやっても駄目なのだが、下手な稽古はいつかは上達できる。

▼居合いの場合、真剣を扱う技を修練するのであるから、腰に差し、きちんと抜き、危険のないように行なう。最初から速く振る必要もなければ、回数を多く振る必要もない。型をとにかくゆっくり、きちんと行なう。これだけで抜刀の素養が出てくる。

▼刀は「持ったら駄目だ」という。フワッと包むのだ。そう言われてもここが難しい。刀は重い。どうやってフワッと包めというのだ。私のような素人には、こういう点が一番難しい。

▼そもそも、まっすぐ歩いてみろと言われても、これが意外に歩けない。普通にまっすぐ歩こうとしても、意識すると余計できないものだ。素人は呆れるほど、「自然な体の運び」ができなくなっている。それで、まず歩き方から練習しなければならないのだ。

▼達人は言う。刀を振るのでも切るのでもなく、「落とす」のだと。しかも、刀を振る(切る)ことと落とすことは、紙一重で結びついている感覚だという。そして、力を抜けば抜くほどよく斬れるし、速く動けるようになる。

▼刀は名刀でなくともよい。取りあえず、刀の格好をしていれば斬れるという。下手な稽古では、刀を明らかに振っている。力任せの振りであるから、手元から剣先に向かって順に、弱→強→弱となっている。ところが、力を抜いた場合は手元から、強→弱→強と力がかかる。だから、力を抜いたほうが「斬れる」というのだ。

▼こういう剣に力を与える稽古というのは、ことほどさように型から入る。たとえば、正面を向いた構えではなく、左肩を引いた態勢から打突した場合、刀を上段一杯から振り下ろしたのと同等の斬撃力があるという。

▼とにかく、力を抜くことをひたすら強いられる。確かに、宮本武蔵も3人力とか言われながら、技の稽古をするときには、非常に軽い木刀を使用していた。力をつける訓練は容易にできる。力のない人が軽いものを扱うことも容易にできる。しかし、力のある人が、力では通用しない世界を感得するということは、本当に難しい。

▼剣道で用いる防具の胴を、竹刀(しない)一本でへし折ってしまうような猛烈な斬撃力は、ウェイトトレーニングによって補強された筋肉からは決して生まれない。それどころではない。鉄棒や鉄板を、市販の一般刀で一刀両断にする現場を見せつけられると、これが体力によってなされたものではないことが、思い知らされる。斬鉄剣(ざんてつけん=鉄を切断できる刀剣)というものは、何も『ルパン三世』に出てくる石川五ェ門の専売特許ではない。

▼型が十分に理解されていれば、幕末、北辰一刀流をはじめとして、いわゆる竹刀打合の稽古があれほど盛んにはならなかったろう。ただ、それも武術が、近代のスポーツという新たな世界を生み出していった一つの流れであるから、殺人の技としての居合いや抜刀とは、区別しなければいけない。どちらがいいとか悪いとかいうものではない。

▼いずれにしろ、真剣の世界では、鍔迫り合い(つばぜりあい)などということはあり得ない。時代劇などで見る殺陣(たて)に馴れている私たちの常識は、真剣の世界ではほとんど非常識だ。

▼「力を抜くが、刀を抜かない」ということを学ぶのが居合いだとも言われるくらい、鞘(さや)を引くことがポイントなのだ。刀を抜いて相手を切ろうとすれば、どうしても上体が前に先行する。相手はすでに切り掛かってきているのだ。下手をすれば、自分の刀より上体のほうが前に出る。こちらの刀が相手に届く前に、自分の頭が相手の刀の餌食になってしまう。

▼だから、鞘を引く。引けば体は残るか、あるいは後ろに下がる。抜き身となった刀だけが体の前にある。後は突っ込んでくる相手が、勝手に切られてくれるのだ。刀を抜くのではない。ただ鞘を引いて、抜き身にする。そして、相手の刀をかわすだけのことだ。

▼かつて、「伊勢の生神」と呼ばれた、真剣による祓(はら)いの秘儀を会得していた人物がいた。

一剣満生
一刀満殺
魔界転生
真界天生
(神武参剣王太志命剣言)

いわゆる、魔性の邪霊を切り祓う宗教儀式なのだが、不思議なことに空中を切っていたにもかかわらず、真剣の刃が欠けたという。本物の稽古をすれば、見えないものすら斬ることができるということだろうか。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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