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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第230回・腹が減っては

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【閑話休題】第230回・腹が減っては

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-02-06 17:04:00]

【閑話休題】第230回・腹が減っては

▼映画やドラマでは、戦国時代の兵士たちの食事が、ほとんど出てこない。とくに戦場や野営地における食事のシーンなど、まずお目にかかったことがない。主人公たちは、位の高い武将ばかりだ。

▼しかし、考えてみてほしい。1600年の関ヶ原合戦の場合、両軍とも8万から10万人超という動員兵力だ。一軍10万前後と一言で言うが、えらいことではないか。

▼一人、一日に玄米三合としたって、10万人分を用意しなければならないということだ。もちろん、自腹で乾飯(ほしいい)など携帯していたが、非常食であって足りるわけもない。一食300gとしても、10万人分というと、1日に90トンはくだらない。10日で900トンだ。一ヶ月で2700トン。

▼いったい、どうやって運んだのだろうか。であればこそ、小荷駄隊といったような、兵站を担う特殊部隊がいたわけだろうが、戦(いくさ)をするといっても、その準備たるや大変な労苦だ。

▼基本的には、農兵であった戦国時代、大名から招集のお声がかかると、みなこぞって駆けつけた。いいバイトだからだ。とくに、戦に強い武将の下には、目がらんらんとした農民が、我先に駆けつけた。

▼中には、子供まで連れて行った例が多々あったそうだ。大名のほうで、「頼むから、子供は連れてこないでくれ」とお布令をしょっちゅう出していたという記録がある。それでも「将来のための、良い経験です」ということで、農民に押し切られたり、黙認したりしたことも普通だとか。

▼なにしろ、戦で勝てば、やりたい放題なのだ。まだ人身売買や奴隷制度が存在していた戦国時代、女子供を捕虜にして売り飛ばす(ちゃんと、人身売買の市が立っていたのだ)、食料はもちろん、金目のものを強奪する。そういった乱暴狼藉は、戦国時代当初、農民が兵士として参加に応じるための必須要件だった。だから、大名のほうでも、大目に見ていたフシがある。

▼社会主義的な歴史観で、「戦国時代、農民はいやいやながら大名に駆り出された」、などというまことしやかな話は、事実を歪曲している。食糧事情の悪い時代、次はいつ戦なんだ、と渇望していたのが実態だったといっていい。

▼もちろん戦といっても、ひたすら殺し合うのではなく、陣地設営など軍夫的な労役がほとんどであったし、また実際の合戦でもその死傷率の低さからいって、まかり間違えば死ぬという実感が、農兵にはわれわれが思うよりずっと希薄だったかもしれない。

▼その戦国時代の兵士たちは、だいたい先述の乾飯を携帯食として持っていった。今で言うところの、登山で使うアルファ米のようなものだ。お湯でとけば、雑炊になる。おかずはというと、万能だったのが焼き味噌だ。味噌は、カビが生えたりするので、焼いて味噌玉にして携帯した。

▼味噌汁にもなるし、かじっておかずにもできた。なにしろ塩分と栄養、ビタミンが豊富だ。贅沢な農兵の場合は、胡麻油や生姜を刷り込ませて練った、焼き味噌玉を持っていったそうだ。あとは、梅干と相場が決まっていた。

▼戦であるから、いつなんどき(夜中でも)勃発するやもしれない。が、基本的には朝、二食分を炊き、朝は暖かい食事ができた。昼は、残りを使った手弁当である(要するに握り飯だ)。夜は夜で、また炊いた。

▼ものの計算によるが、一日三合と書いたが、五合という説もある。(ある戦国大名の記録では、兵一人に対して米六合、塩は十人に一合、味噌は十人に二合という規定があったことが確認されている。)今より遥かに平均身長の低かった当時の日本人が、一日に五合食っただろうかとやや疑問だが、なにしろ戦という重労働だ。もしかしたら、五合なのかもしれない。

▼関ヶ原は極端に大規模な戦闘であったが、戦国時代中盤以降は万単位の動員というのはごく普通に登場した。仮に1万人だけだったとしても、一斉に1万人が飯を炊き出すのだ。その光景たるや壮観であったろう。というより、いったいどういう光景なのだろうか、わたしなどは想像ができないほどだ。

▼しかも、これは飯の話だ。食えば、当然、出るものがある。そちらも1万人分だ。とんでもないことだと思わないだろうか。現代人の正常な人の便の量というのは、150-200gだという。昔の人は、350gあったそうだ。ずっと多いではないか。食物繊維を取る量が圧倒的に多かったからだ。

▼戦国時代の兵士たちも、芋茎(ずいき)を乾燥させたものを、日常は縄に使いながら携帯していた。焼き味噌と同じくらい重要なものだった。いざとなると、これを味噌汁にしたり、食事ができないときには、かじったりしていたのだ。

▼その350gの1万人の便の量( 1日3.5トン、10日35トン)というものを、想像すること自体が無理だ。実に身の毛のよだつ、恐るべき光景だ。しかも、である。城や砦を包囲され、篭城戦にでも陥った日には、わたしなどはとても生きていられない。敵の総攻撃が始まる前に、とっくに砦の中で頓死していたことだろう。ちなみに、旧帝国海軍では、海戦開始と同時に、「大便小便勝手放題」と決まっていたそうだ。それはそうだろう、戦闘が始まっているというのに、持ち場を離れるわけにいかない。その場で、用を足せというわけだ。知れば知るほど、今の時代で助かったとつくづく思う次第。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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