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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第249回・熱球の彼方に

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【閑話休題】第249回・熱球の彼方に

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-03-06 15:14:00]

【閑話休題】第249回・熱球の彼方に

▼東京ドーム敷地内に、一つの石碑がある。21番ゲート前だ。太平洋戦争などで戦死した日本のプロ野球選手の功績を記念した、「鎮魂の碑」である。管理は、野球殿堂博物館が行っているらしい。ネットから、彼らの事績の一端を拾い、まとめてみた。

▼最も有名なのは、三重県出身の沢村栄治(さわむらえいじ)だろう。1934年・昭和9年、夏の甲子園大会終了後、京都商業を中退して、読売新聞社主催による日米野球の全日本チームに参戦。

▼5試合に登板( 4先発)。11月20日、静岡県草薙球場での試合では、7回裏にルー・ゲーリックにソロ本塁打を浴びただけで、メジャーリーグ選抜チームを、1失点9奪三振に抑えた。この試合は、ゲーリッグの一発が決勝打となって惜敗している。(これ以外の4試合では、滅多打ちにあったそうだ。)

▼沢村の戦績は未だに語り草である。プロ野球リーグが始まる前の1935年、第一次アメリカ遠征に参加。21勝8敗1分け。同年、国内の巡業では、22勝1敗。翌年の第二次アメリカ遠征でも、11勝11敗。余りにも差が大きかったアメリカ野球を向こうに回して、大健闘している。

▼プロ野球リーグが開始された1936年・昭和10年秋、史上初のノーヒットノーランを達成。37年春には、24勝・防御率0.81。史上初のMVPに選出されている。同年、二度目となるノーヒットノーランを記録。黎明期の巨人・日本プロ野球界を代表する快速球投手として一躍ヒーローとなる。とくに大阪タイガースの豪打者・景浦将とは好敵手であり、その名勝負は多くのファンを沸かせた。

▼一体、沢村の速球スピードはどのくらいだったのか。一度テレビの企画で、生前の沢村の投球を実際に経験している元選手たちが、ピッチングマシーン相手にバッターボックスに立って、記憶と感覚を頼りに割り出したことがある。結果は、160キロ。

▼なにしろ、記憶と感覚だけが頼りだから、正確なところはわからない。しかし、この試みに参加した青田昇らはいずれも、沢村が全盛期を過ぎた1940年以降に公式戦をプレイしているので、もしかするとそれ以上の豪速球であった可能性すらある。

▼この沢村選手は、信じがたいほど運が悪い。合計3回の徴兵に遭っているのだ。一回目の徴兵( 1938年から1940年)では、手榴弾を投げていたことから生命線である右肩を痛めた。しかも、戦闘中に左手を銃弾貫通で負傷し、マラリアにも罹患。この後遺症で、復帰後も、何度か球場で倒れた。右肩を壊していたため、オーバースローから速球は投げられず、サイドスローに転向。抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を見せ、三度目のノーヒットノーランを達成している。

▼二回目の徴兵( 1941年から1942年)は、サイドスローですら投げることができなくなっていた。そして復帰後は、肩への負担が少ないアンダースローに転向。しかし、二度にわたる徴兵で、身体はすでにぼろぼろだったようだ。制球力も大幅に乱れ、1943年の出場はわずかだった。

▼1944年・昭和19年、シーズン開始前、巨人からついに解雇された。移籍も考えていたようだが、けっきょく「巨人の沢村で終わるべきだ」と諭されたという。南海から入団の誘いはあったようだが、固辞している。

▼なんと、現役引退後、1944年10月2日に、三回目の徴兵である。同年12月2日、陸軍伍長として乗船していた輸送船が、フィリピンに向かう途中、屋久島沖西方で、米潜水艦シー・デヴィルにより撃沈、戦死。2階級特進で兵長。享年27歳。

※会員の方から、2階級特進であれば、曹長のはずだ、というご指摘がありました。わたしの見た原典が、兵長となっていましたが、これは確かに誤りです。曹長になっている筈です。ここに訂正されていただきます。

▼戦後、1947年、巨人は沢村の功績を讃えて、背番号14を日本プロ野球市場初の永久欠番に指定した。

▼しかし、どうにも腑に落ちないのが、この人生三回にも及ぶ徴兵だ。しかも、無名の一市民ではない。当時、誰でも知っているような名選手である。一体、どういうことなのか。

▼もともと沢村は中学(旧制である)卒業後、慶應義塾大学への推薦入学がほぼ決まっていたが、正力松太郎(警視庁警務部長、読売新聞社主などを歴任。)が強引に口説いて、中学校を中退させ、巨人軍入りさせている。正力は「一生面倒を見る」とまで言ったという。しかし、戦地から帰って負傷した沢村を、巨人は解雇。約束は破られた。

▼3回もの召集は、学歴が原因だという説もある。それにしても、正力ほど各界にパイプもあり、影響力もある男が、沢村を守り通すことができなかったのだろうか。あるいは、この時期は、戦況が悪化していく頃であるから、「沢村のような有名人でさえ、3回も戦地に赴いた」という宣伝効果を狙った、意図的な作為があったのだろうか。

▼さすがに、巨人からの解雇を告げられたときには、本人も気落ちしていたようだ。「大投手などとおだてられていい気になっていた、わしがあほやったんや」と語ったそうだが、自分を責めるだけで、正力や巨人に対する恨みごとは言わず、笑顔で入営していったという。享年27。

▼「鎮魂碑」には、もう一人、やはり有名な選手がいる。石丸進一である。神風特別攻撃隊として戦死した唯一のプロ野球選手である。

▼佐賀出身の石丸も、速球派エースである。名古屋軍(現中日)に入団志願をして、先に入団していた兄とともに、初の兄弟選手となった。初登板・初先発で完封勝利。この年の名古屋軍の4割以上を、石丸一人で稼ぐという獅子奮迅の活躍を見せた。1943年には、戦前の球史では、最後のノーヒットノーランを記録している。チームを2位まで躍進させた。

▼兵役を免れるため、プロ野球選手ながら、日本大学法科夜間部に在籍したが、1944年の学徒出陣で、けっきょく召集された。本人は海軍飛行科を希望。筑波海軍航空隊に配属。1945年・昭和20年には、「神風」に志願。特攻訓練を受けて、鹿児島県の鹿屋基地に転進している。

▼同年5月11日の菊水六号作戦発動に伴い、所属する第165振武隊にも出撃命令が出る。石丸は爆装した零戦に搭乗、沖縄方面の米機動部隊を目標に出撃し、未帰還となる。享年22。

▼鹿屋基地に入る前日、佐賀の実家に戻った折に、当時小学生だった従兄弟を呼び出すと、いきなりぶん殴ったそうだ。従兄弟は泣きながら抗議すると、石丸はひたすら「いや済まなかった」と謝ったという。従兄弟の述懐では、「戦争で死んでも、石丸進一とう男がいたことをいつまでも覚えておいたほしい」という、「生きた証(あかし)」を残したかったのだろう、と述べている。

▼基地では、最後の言葉を書き残すための小さなアルバムを手渡され、「葉隠(はがくれ)武士、敢闘精神、日本野球は」と書いたところでペンを止めているそうだ。友人の少尉から、「この期に及んで、まだ野球か!」と諌められると、石丸は、「おう、俺は野球じゃ。俺には野球しかないんじゃ!」と怒鳴るように言い残していったという。

▼出撃前も、同僚とキャッチボールをしている。当時、海軍報道班員として鹿屋基地にいた作家の山岡荘八が、このキャッチボールに立ち会っているらしい。10球投げたところで、石丸は山岡に「これで思い残すことはない。報道班員、さようなら。」と笑顔で叫んでグラブを放り投げ、飛行場に向かったという。

▼最後はぼろぼろになって逝った沢村も、これから絶頂期を迎えるというところで逝った石丸も、あまりにも過酷な運命を前にして、その最後の笑顔の中には、どういう思いが去来していたのだろうか。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄」




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