【日刊チャート新聞記事紹介】
[記事配信時刻:2014-03-07 15:20:00]
【閑話休題】第250回・鉄の馬
▼いつの頃だろう。高校時代か、大学の頃だろうか。新聞の広告で、とんでもないものを見た。一枚の大きな写真だ。カメラの視点は、地面すれすれ。どうやら高校のグラウンドのようだった。ちょうどカメラマンが、地面に腹ばいになって撮った写真のようだった。
▼遠方に、(あやふやな記憶では)サッカーゴール周辺で、高校生たちがボールを追っているのが見える。一方、カメラのすぐ前には、サイドスタンドで休ませているバイクと、たしかそのステップにブーツを履いた片足が乗っていた。写真の右半分がこのバイクとステップに足をかけているブーツで占められている。
▼遠くには、サッカーゴールに群がる高校生たち。遠近の距離の違いが、なにものか、対照的なものを示そうとしている。キャッチコピーは、「先生、ボールを追いかけているのだけが、青春じゃないんだよ。」・・・確か、そんな文言であったと思う。
▼記憶に間違いがなければ、ヤマハのバイクの広告だったと思うのだが、当時、メーカーは、暴走族などに配慮して、中型以上、限定解除のバイクについては、積極的なメディア広告を打たなかったようだ。それが、業界の不文律だったのか、業界自粛なのか、とにかくそういうものがあったようだ。煽らない、ということだ。
▼そんな中で、この新聞広告は、意表を突くほど「過激」であった印象がある。健康的な青春像に対する、アンチテーゼのような、いわば「反逆的な」スピリットがにじみ出るような広告だった。
▼Bike(バイク)というと、英語では普通Bicycle(自転車)の意味だ。Motorcycleが日本語でいうバイク、いわゆるオートバイの意味として通じる。
▼これは、実際に乗ったことのある人でなければ、とてもわからない感覚だろう。まるで自動車とは別物である。高速であればあるほど、車体が安定するのだ。二輪であることの特性だろう。
▼その魅力にとり憑かれると、もうとにかく走っていなければ気がすまない。走っていることそのものが、快感なのである。自動車ではそういう感覚はない。
▼自動車はどこへいっても、自分の世界が箱の中に存在し続ける。安心感は確かにあるが、刺激はきわめて少ない。ところが、オートバイは、生身で走っているようなものだから、まかり間違って、「当たれば」必ず負ける。死の確率も高い。だから、バイクに乗る人間は、その運転のスタンスは、きわめて「防衛的」「防御的」になる。神経が、四方八方に向けて、常に研ぎ澄まされている。接近してくる異音、風圧、振動、すべて五感で掴みとろうとする精神状況になっている。
▼F1でもなんでも、二輪出身のレーサーは、四輪でも成功する確率が高いそうだ。なにしろ、スピードというものを、皮膚感覚で覚えることができる。車だけで運転をしていると、気がついたら140キロ出てた、などということがよくあるだろう。バイクでは、そういうことは絶対にない。100キロを越えてくると、自然に体が緊張しはじめる。
▼街を抜け、山野を通り、再び街が近づくと、まず気温がぐっと上がってくるのがわかる。そして、野生の匂いから、人間のさまざまな生活の匂いへと変わっていくのがわかる。なにも、峠のコーナーを攻めるとかいうのではないのだ。わたしがとり憑かれたのは、スピードではない。なんといってもロングツーリングだった。
▼たとえば、テントを積んで、横浜をスタート。東北、北関東、信州、伊豆と一泊で足を伸ばせるところは、どこにでも走っていった。ほとんどソロ走行だった。
▼夏の場合は、雨がまた良かった。とにかく痛いのだ。いてもたってもいられないくらい痛い。冬は、なぜこの寒い中を好き好んで凍えながら走っているのか、と我ながら不思議だった。
▼一番遠い距離を走ったのは、東京から九州までの往復。往路は、東海道と山陽道。復路は、山陰道と中山道を使った。最後に台風につかまり、甲府で余計な足止めを食らって往生したが。すべてテント泊だ。
▼ツーリングの最中、当然、その土地の人たちとの邂逅はある。が、別にそれを目的としていたわけではない。「人との触れ合い」などという御伽噺(おとぎばなし)など、眼中にない。ただ、走りたかったのだ。バイクというのは、たぶんそういう乗りものだ。目的などというものは、バイクには最初から無いのだ。あまりにも自己完結的なモノ、それがバイクだ。だから、言いようによっては、高価で贅沢なおもちゃだ。
▼人によって、もちろん好みの違いはある。多くは、スムーズな四気筒エンジンを好むだろう。わたしの場合は、ひたすら振動と、シリンダーの爆発音が大きい二気筒、あるいはビッグシングル(単気筒)が好きだった。
▼たぶん、山といっしょで、バイクというのも、「つるんで」行くものではないのだろう。徹頭徹尾、単独行が筋の乗り物なのだ。群れるには、目的が必要になる。しかし、一人なら、目的などいらない。バイクとは、自体そういう乗物なのだ。
▼熱いは、寒いは、埃塗れになるは、危ないは、およそいいことなど何も無いバイクだが、たまにはいいこともある。夜、横浜の山下公園近辺の路地を抜けていくときのことだ。今で言う、ヤンキーのような連中が、大勢路上にたむろしていた。酒が入っていたようだ。わたしの前には、メルセデスが徐行していた。中には若い男女が仲良くしていた。わたしは低速で、その後ろについていた。
▼ヤンキーたちが、メルセデスを見て、絡みはじめたのだ。ボンネットや、窓ガラスを手でばんばん叩いては、中の二人をやじったり、罵倒したりし始めたのだ。正直「やばい」と思った。前の二人はいい。なにをされても箱の中だ。ドアロックさえしていれば、なんともない。いざとなれば、いきなり加速して、振り落とし、逃げ切れる。しかし、わたしは、なにしろ「生身」なのだ。タコ殴りの上、バイクも壊されかねない。
▼メルセデスは、アクセルを踏み込む勇気もなかったのだろう。低速のまま、さんざんにいびられまくって、ようやくその群れを脱して、慌てて走り去った。次はわたしの番だ。万事休すだ。
▼すると、連中は、どうしたことか「おい、バイクだ、バイクだ。道開けろ。」といいながら、いっせいに、路上から歩道に上がって、わたしのバイクを通してくれたのだ。バイクだけは、特別扱いだ。
▼また別の機会に、ロードサイドのドライブインに入った。腹が減っていたのだ。食事が終わって駐車場に戻ると、わたしのバイクの周りに、これまた5-6人のヤンキーたちが座りこんでいたのだ。怖い。
▼逃げるわけにもいかない。手刀を切りながら、「すんません。すんません。」と言い、バイクに近寄ると、彼らは一斉に立ち上がった。「うわっ、どーしよ。」と思ったところ、一人が「あにきィ、いいバイクっすね。」と言った。
▼バイクというのは、不思議な乗物だ。車でも、バイクでも、人間は強烈に自己主張をする。そういう性(さが)なのだろう。ところが、バイクの場合、どういうわけか、その割に奇妙な連帯感のようなものがあるらしい。バイクに乗っている、それだけで仲間だという認識が生まれる、不思議な魔力があるらしい。
▼バイクに乗っていると、確かにたまにはいいことがあるのだ。といっても、このていどの話なのだが。
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄
日刊チャート新聞のコンテンツは増田足のパソコン用ソフト、モバイル用アプリから閲覧可能です。
15日間無料お試しはこちらから
https://secure.masudaasi.com/landing/pre.html?mode=cs