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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第299回・6月の銃声、8月の砲声〜前編

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【閑話休題】第299回・6月の銃声、8月の砲声〜前編

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-05-21 15:34:00]

【閑話休題】第299回・6月の銃声、8月の砲声~前編

▼判明している史実では、3400年前から今日まで、世界で戦争がなく平和だった期間はわずか268年だそうだ。

▼イラクのシャニダール洞窟に葬られた男性ネアンデルタール人は、5万年前に槍で傷を受けて死んだ人だったと推測されているようだ。殺人か事故かは分からないが、人が人を殺した最古の証拠だということになる。

▼12,000 - 10,000年前頃(後期旧石器時代末)のナイル川上流にあるジェベル=サハバ117遺跡では、幼児から老人までの58体の遺体が埋葬されている。これらのうちの24体の頭・胸・背・腹に116個もの石器が残っていた。また骨に突き刺さった状況の石器も多い。この遺跡は農耕社会出現前の食料採集民の戦争の確実な例とされているという。

▼ナポレオン戦争によって、いわゆる国家総力戦の原型がつくられ、それは第一次世界大戦で、決定的となった。第二次世界大戦では犠牲者の数は、2倍に膨張するに至った。

▼ナポレオン戦争( 1815年で終結)から、ドイツ帝国統一を巡る普仏戦争( 1872年)までは、兵器の進歩は飛躍的になっていったものの、実戦における戦術は、まだたぶんに中世の騎士道的な習慣を残しており、歩兵の密集隊形で前進して射撃し合い、至近距離になった段階で銃剣突撃による白兵戦に突入するというパターンが繰り返されていた。銃の連射・速射が可能になり、機関銃までが登場してきたにもかかわらず、この戦闘パターンはそのままだった。このため、犠牲者の数はどんどん増加していった。しかし、戦術の抜本的な変化は見られなかった。

▼幸か不幸か、普仏戦争以降、欧州ではめずらしく大規模戦争は皆無となり、その平和な時代は、第一次大戦( 1914年)まで40年余りも続く。そのため、戦場の悲惨さは記憶の彼方に追いやられ、パリを中心に花開いたベル・エポック(古き良き時代)を人々は謳歌した。

▼文学、絵画、舞踊、音楽、医療、科学が20世紀につながる揺籃期として、まさに円熟した帝国主義末期の微妙にして、危うい力の均衡を保っていたのだ。

▼この頃、パリの社交場ムーラン・ルージュでは、ロートレックの絵で知られるベラ・サラザール、ジャヌ・アヴリルなど、当代きっての女優・踊り子・歌手が、その名花を競っていた。その中に、後の第一次大戦で有名になる二重スパイ・マタハリもいた。

▼爛れたような世紀末の雰囲気は、そのまま20世紀初頭に引き継がれ、永遠に続くかに思われた。が、それはビスマルク(ドイツ帝国首相)などによる、複雑怪奇な軍事同盟が十重二十重に交わされた、奇蹟のような外交関係によってかろうじてなりたった均衡であり、つねに一触即発のリスクは潜在していたのだ。

▼ドイツでは、いったん戦争が始まった場合に備えて、参謀本部がシュリーフェン・プランを完成させていた。特秘事項であるはずの作戦計画そのものが、欧州中で有名になってしまっていたこと自体、実際には「戦争は起こらない」という漠然とした楽観論が蔓延していたことを示している。

▼これに対抗するべく、フランスでも対ドイツ戦を想定した作戦計画、プラン17の準備にいそしんでいた。各国とも、この平和な40年間に、遠方で起こった戦争(ボーア戦争1881年、米西戦争1898年、日露戦争1904年など、23回の戦争が世界中で勃発していた。)を観戦し、自国の防衛戦略と軍備増強の糧としていた。

▼第一次大戦は、普仏戦争以来、欧州ではひさしぶりの大規模戦争となったが、先述のように、人々の記憶にあるナポレオン時代の、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿が想像され、両陣営の首脳部・国民共に戦争の先行きを楽観視する傾向があまりにも強かった。

▼多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、「この戦争は短期決戦で終わるだろう」「クリスマスまでには家に帰れるだろう」と想定し、国家宣伝と愛国心の熱情に押され、こぞって軍隊へと志願した。

▼結局、第一次世界大戦はナポレオン的な攻撃による短期決戦を目指して、両勢力が約2000万という大兵力を動員したものの、塹壕と機関銃による防衛線を突破することができず(これは日露戦争の203高地ですでに予見されていた)、戦争の長期化と大規模化が決定付けられることになる。

▼この第一次大戦が、一発の銃声によって勃発したことは知られている。1914年6月28日、オーストリア(墺)=ハンガリー(洪)二重帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺された。サラエボ事件である。

▼当時、墺洪二重帝国(ハプスブルグ家)は、隣国で膨張しつつあったセルビア(スラブ系)を脅威に感じていた。領内にボスニア・ヘルツェゴビナというスラブ人居住地区を抱えており、セルビア人たちは、バルカン半島のスラブ人による統合国家を熱狂的に望んでいた。この後ろにはもちろんスラブ系の盟主・ロシア帝国がいた。文字通り、「バルカンの火薬庫」であった。ビスマルクは1898年に無くなる直前、「馬鹿なことが起こるとしたら、バルカンだ。」と懸念を遺していた。

▼一セルビア主義青年・プリンチッペが放った銃弾は、大公夫妻を死に追いやったが、単に墺洪帝国内のボスニアを独立させ、同じセルビア人のセルビア共和国と併合を目指す、大セルビア主義の熱狂的信奉者だった。彼は、ボスニア出身のセルビア人だ。しかも、暗殺という強硬策に出た最大の理由は、彼が肺結核に罹患しており、長くはないという認識が本人にあったためだろう。

▼実際、彼は、未成年者であったため、死刑は免れ、懲役20年の判決を受けた。後、第一次大戦終結まであと数ヶ月というときに、監房で病死した。自分が放った一発の銃弾が、1000万人の命を奪う未曾有の大戦争に発展するなど、想像だにしなかったに違いない。

▼この6月の銃声から、オーストリアとセルビアの戦闘が始まるわけだが、この段階では、まだ各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしている。そこに、さまざまな謀略と誤解、連絡の不徹底、甘い判断など、あまりにも不幸な事実がどういわけか偶発的に頻発している。結局、もともと各国が「あるはずのない」戦争計画の自動プログラム発動と連鎖を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展していくことになる。

▼ドイツが最終的に、シュリーフェン・プランを発動し、総動員令を発したのが8月1日である。同時に、ドイツ軍はベルギーに侵攻を開始している。ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、即座にプラン17を発動。総動員令を同日発した。

▼6月の一発の銃声は、8月の砲声に変わっていった。誰も望まず、誰も起きないと楽観視していた戦争、それも誰も想像だにしなかった悲惨な大戦争の幕開けである。来る6月、あれからちょうど100年が経過しようとしている。同じような状況が、今世界に無いと一体だれが言えるだろうか。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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