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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第300回・6月の銃声、8月の砲声〜中篇

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【閑話休題】第300回・6月の銃声、8月の砲声〜中篇

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-05-22 15:16:00]

【閑話休題】第300回・6月の銃声、8月の砲声~中篇

▼この第一次世界大戦の開戦に至る経緯については、実に様々な分析がなされているが、直接の開戦理由は、未だにはっきりしていないのである。サラエボ事件はほんの端緒に過ぎず、それまでの欧州諸国の間にあった数多の要因がすべて絡み合い、まるで市場のプログラム売買のように、ほとんど自動調節機能を失ったまま、勝手に進行していったイメージすらある。

▼当事者たちの判断が、すべて悪い方向に向かっていったとしか思えないような展開である。その果てに起きた戦争と言うこともできる。極端なものとしては、すべては偶然の産物でしかなかったという意見すらある。

▼はっきりしていることは、国家指導者達はみな不思議なくらい楽観的で、開戦間際まで状況が破滅的であることを理解できなかったということだ。そして、気が付いた時には止める術がなかったのだ。

▼また主な通信手段がすでに電報だったため、本国の指導者たちと外交官や軍人たちの間には暴走と様々な過誤も生んだ。軍隊指導者は自ら、あるいは事前の戦争計画に拘泥して「自国の置かれた外交的立場」などお構いなしに、まさに自動的に総動員体制へと突入していったのだ。

▼1914年6月28日のサラエボ事件の後、戦端が開かれたのは、オーストリア(墺)=ハンガリー(洪)二重帝国とセルビア王国(戦後、ユーゴスラビアになっていく)の間であった。これにロシア帝国が、同じスラブ系のセルビアを支持して戦争に参加。ロシアはオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国を排除して黒海への進出を虎視眈々と狙っていた。1853-1856年のクリミア戦争の雪辱である。

▼ドイツ帝国は、ロシアが総動員令を発したことから、この解除を要求。ドイツのウィルヘルム二世と、ロシアのニコライ二世は、英ビクトリア女王(すでに亡くなっていた)を介して従兄弟同士であった。もっと言えば、英ジョージ5世も、そうである。つまり、世界の半分以上を支配していた三人の君主は、いとこ同士だったのだ。

▼1905年の日露戦争が終わったころのことだが、ウィルヘルムとニコライは、それぞれお互い相手の国の軍服に扮して、ツーショットの写真でおさまっているくらいの間柄だ。これが、戦争に突入したのである。

▼もっとも英ジョージ5世と、露ニコライ2世は大の仲良しだったが、独ウィルヘルムは、エゴイスティックな特異性格もあって、二人からは嫌われていたようだ。(ウィルヘルムの父王自身が、息子のことを、芸術や本などに何の興味持たず、その言動はぞっとするような冷たさを持っていると、評している。)

▼こんな君主の人間関係がまだ外交に大きな影響を与えていた時代だったということも、すべてが悪い方向へ向かっていく一つの伏線にはなっていただろう。実際、ジョージ5世とニコライ2世は、大戦のころにはさまざまな事件の発生で、大のドイツ人嫌いになってしまっていた事実がある。

▼さて、ドイツからいちゃもんをつけられたロシアは、一瞬ひるんだ。ニコライはその性格の弱さ(若いころから、ウィルヘルム2世に、背中をこづかれるなど、弱いものいじめの対象となっていたくらいだ)から、応じる動きを見せたが、硬化したのはロシア軍部である。いったん動員解除をしてしまうと、再び動員する場合に時間がかかることを懸念し、総動員を強行した。これをみてドイツも総動員に踏み切っている。実際には、ドイツはこのバルカン半島でのローカル戦争に参加する直接の理由が皆無といってよかったのだ。

▼ドイツ参謀本部が作成していた戦争計画シュリーフェン・プランは、原則としてドイツが戦争を余儀なくされる場合、東西(東のロシア、フランス)で同時に戦端を開いてはならないというものだった(ニ正面作戦回避の原則)。そして、全力を西部戦線に投入し、電撃的にパリにまで進行し、フランスの降伏を実現する。

▼ロシア軍が仮に、ドイツ東部に侵入してきても、これは無視。ベルリンが陥落しても、全軍はあくまで西部戦線に投入すべし、というものであった。フランスが戦争から脱落すれば、その段階で、今度は全力で東部戦線に取って返して、ロシア軍を撃破するというプランである。

▼したがって、本来無視すべきロシアとの戦端が開かれようとしている危機にあって、まったく戦争勃発の理由の無い西部戦線で、(しかし計画通り)ドイツは、まるで「見切り発車」的にいきなり全軍を投入し始めたのである。ベルギーに対して、通過許可を求めて拒否されると、一気に侵攻を開始したのだ。ほとんど軍部の、機械的な暴走といってもいい。

▼そもそも、大戦の発端となった墺洪二重帝国にしてからが、皇帝もまたハンガリー首相も、開戦には反対であった。とりわけ外務省がこれを無視して宣戦布告へと突入していった経緯がある。

▼イギリスとフランスにいたっては、正直寝耳に水であった。ドイツに宣戦を布告されたため、止むを得ず応戦したといっていい。オスマン帝国もロシア帝国に挑まれる格好になったため参加。イタリアは墺洪二重帝国との間で、トリエステ地方及びチロル地方の領土問題でもめていた。これを「未回収のイタリア」問題という。この奪回に、この戦争を好機と判断して参戦している。

▼ドイツ参謀本部のシュリーフェン・プランは、大戦前から欧州中で知られていたから、フランスはいつそれが発生しても対応できるように、準備万端整えていた。それでも、ドイツ軍の攻撃は凄まじく、大戦の序盤であった1914年9月、一時はパリ東部のマルヌ河畔(パリ中心部までわずか50km)まで迫るも、これが限界到達点となり、押し返された末に、英仏・独軍のいつ果てるともわからない泥沼の塹壕戦に陥っていくことになる。

▼この塹壕戦が、とんでもない消耗戦となったことはご存知の通りで、中盤の天王山と言われたソンムの戦い( 1916年7月~11月)では、英仏・独軍両方で。100万の犠牲者を出すとんでもない惨状となった。初日の7月1日、それまで五日間続けられた大準備砲撃ののち、イギリス兵は朝七時半、朝霧のはれた快晴のなかを塹壕から出て、 無人地帯を前進。 イギリス軍総司令官ヘイグは、歩兵は砲撃で破壊された敵陣地を歩いて占領するだけだと楽観していた。

▼ところが、ドイツ軍は攻撃を予想し、深い塹壕に砲撃を避けて待ちかまえていた。 イギリス兵は肩をならべ、横一列で前進した。砲弾で穴だらけになった戦場で、30kgちかい背嚢を背負っている。ドイツ兵は、この光景をあきれながらみていた。 結果はいうまでもない。

▼機銃掃射の前に、イギリス軍はこの一日で死傷者六万人を出し、攻撃がほぼ失敗に終わると認識されるのに、ものの20分もかからなかった。英軍は参加した兵士の半数、将校の四分の三を瞬く間に失ったのである。 これはイギリス軍が一日にこうむった損害では、後にも先にも最悪の記録となった。5ヶ月に及んだソンムの戦いで、英軍の得た勝利とは、前線をわずか30km押し返しただけのことだった。

▼発端はどうあれ、この無意味なほどの消耗戦が長期化してくると、前線の兵士たちはもちろん、各国の戦争指導者たちの間にも、尽きせぬ疑問を感じざるをえなくなってくる。一体われわれは何のために戦っているのか。これほど、戦争目的が明確でなかった戦争もめずらしい。ただのセルビア人の自治を巡る局地紛争のはずだったのだ。

▼大戦勃発に関して、唯一英ジョージ5世は、独露のなし崩し的な戦闘突入を回避させるだけの立場にあった。彼は、人間的にはしっかりした頼りがいのある、身持ちの良い人物だったが、国際戦略にはとにかく疎かった。

▼ジョージ5世は、結局戦争回避の努力を何もせず、英国は先述のようにドイツに宣戦布告することになる。開戦の日、彼は日記に「結構暑く風雨あり。」と記しているだけだ。しかし、彼は自分自身と英王室を守ることにかけては抜け目がなかった。ロシアが後に大戦から脱落し、革命勃発。大の仲良しだったニコライが英国亡命を求めた時、ニコライが英国人に好かれていないことからこれを拒否し、ニコライを見殺しにすることになる。( 1918年、ニコライ2世と皇后、1皇子、4皇女全員が、赤軍によって銃殺された。)

▼このように、第一次大戦の発端というものは、およそ回帰可能点は、いくらでもまた、どこにでも存在していたのである。細かいことは割愛しているが、このほかにも夥しいほど、連絡ミス、勘違いや誤解、独断専行、たんなる自尊心などによって判断が曲げられてしまう、といったような開いた口がふさがらないような事実が確認できるのだ。

▼問題のポイントは、先入観による過大な楽観論、すべてが機械的に行われてしまうことによる責任の所在の希薄化、ということにでもなりそうだ。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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