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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第304回・大改造 余談

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【閑話休題】第304回・大改造 余談

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-05-28 15:26:00]

【閑話休題】第304回・大改造 余談

▼小説というのは、詩と違って、散文である。短編小説の場合は、それでも余計なことが削がれていて、簡潔に、必要な筋追いと描写で精緻につくりあげられている。ところが、長編になってくると、実に作家の癖が如実にあらわれており、ものによっては読者は敬遠することが多くなる。

▼なにも、長いから読むのがたいへんだ、ということではないのだ。長くても、吉川英治の「宮本武蔵」や、アレキサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯(岩窟王)」などは、おそらく一気呵成に読んでしまう人が多いのではないだろうか。とにかく、筋立て(プロット)が面白いわけで、それに付随する描写やエピソードは、そのプロットをより理解する上で、補助的な作用を持っており、長編にもかかわらず、無駄は無い。

▼ところが、ドストエフスキーの「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」などは、とてもではないが、好きな人ではないと、まず挫折する。わたしは変わり者だから(イデオロギーに強い興味のある人は、がんがん読むはずだ)問題なかったが、客観的にふつうは読める代物ではない。なにしろ悪文である。翻訳されているものを読んでいても、その悪文ぶりに容易に想像できるくらいだ。

▼なにが悪文にさせているかというと、プロットとは直接関係ないエピソードや会話などが、やけに長いのである。同じ長編でも、トルストイのものとは、このドストエフスキーはまったく比べようがないほど余計な部分が多すぎるのだ。これがまたドストエフスキー好きにはたまらないところなのだろうが、一般的にはうんざりしてしまう点だろう。

▼昨日の閑話休題「大改造」で名前が出てきたヴィクトル・ユーゴーの長編小説は、おおむね非常に読みやすく、プロットの面白さも手伝って、どんどん読めるものが多い。大いに売れた大長編小説「レ・ミゼラブル」もそうだ。が、この中に、珍しくなんだこれは、という「余計な部分」がある。けっこう、うんざりなのだ。

▼「大改造」の話のテーマだったパリの都市計画にもからむことなので、ちょっと紹介してみよう。

▼主人公ジャン・バルジャンが、官憲の追求から逃れるため、パリの下水道にもぐるあの有名な場面だ。あの小説で、パリの下水道は世界中に知られることになった。

▼ジャン・バルジャンには、訳あって引き取り、自分の娘のように溺愛していた孤児コゼットがいた。このコゼットに愛を寄せるようになったマリウスが、瀕死の重傷を負う。ジャン・バルジャンはこのマリウスを抱えて、政府軍の攻撃で壊滅した共和主義者のバリケード付近のマンホールから下水道にもぐり、パリの暗黒の下水道を逃避行するのだ。

▼ジャン・バルジャンの天性のカンで迷路のような下水道(といっても、穴倉のようなイメージはなく、かなり広い)、延々5キロあまりの道程を踏破し、セーヌ右岸の放流口まで逃げ切る。このあたりの描写(小説のクライマックスだ)は豊島与志雄の訳で読むと。実に息づまるような緊張感から、思わず手に汗をにぎるはずだ。

▼やや難点なのは、筋の複雑さかもしれない。主人公のジャン・バルジャンを典型的な善玉として、その不遇な生い立ちや、彼の不撓不屈の気力と博愛精神を全面に出しながら、それとまったく正反対で、おぞましいほど悪党のテナルディユとその家族の酷薄な運命。この二つの両立が大きな柱なのだが、不思議な糸でこの二つの柱がつながっている点を、複雑な筋立てで結びつけているのだ。

▼例えばワーテルローの戦いの記述を読めば、この歴史的大会戦がどんなふうに開始し決着したのか手にとるように理解できるが、この壮大な描写もしょせん、ジャン・バルジャンとテナルディユという二つの柱が結びついていく重要なきっかけをつくるための「よた話」にすぎない。

▼ナポレオン軍の敗残兵のテナルディユが、戦死した自軍の将校ボンメルシーから遺品を盗もうとしたところ、偶然彼が息を吹き返した。ポンメルシーは、テナルディユが蘇生させてくれたとばかり思い込み、恩を心に深く刻み込んでしまう。このボンメルシーの息子が、先述のマリウスなので話の筋が複雑になり、面白くなっていくわけだ。

▼このていどの「寄り道」であれば、プロットの躍動感にむしろ拍車をかけることになるから良いのだ。問題は、まったく関係のない話が飛び出してくるからたまらない。それも、論文といってもいい代物なのだ。

▼ユーゴーは、ジャン・バルジャンの脱出劇を描くにあたり、例によってパリの下水道について熱弁をふるう。その長さといい、しつっこさといい、岩波文庫版の豊島与志雄訳では第五部第二編が「怪物の腸」としてまるごとこの演説にあてられている。20ページだ。その冒頭から、パリは「黄金を無駄に川に捨てている」といって、ナポレオン三世が推進した下水道政策そのものを痛烈に批判するのである。要するに、ユゴーは、「パリ大改造」反対派だったのである。

▼読んでみればわかるが、もういい加減にしてくれといいたくなるくらいの長広舌が展開している。せっかくここまで読んだのだからと、辟易しながらつきあう以外にはない。

『パリーは年に二千五百万フランの金を水に投じている。しかもこれは比喩ではない。いかにしてまたいかなる方法でか? 否。昼夜の別なく常になされている。いかなる目的でか? 否。何の目的もない。いかなる考えでか? 否。何という考えもない。何ゆえにか? 否。理由はない。いかなる機関によってか? その腸によってである。腸とは何であるか? 曰く、下水道。・・・・ 科学は長い探究の後、およそ肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日認めている。恥ずかしいことであるが、われわれヨーロッパ人よりも先に支那人はそれを知っていた。エッケベルク氏の語るところによれば、支那の農夫で都市に行く者は皆、我々が汚穢と称するところのものを二つの桶いっぱい入れ、それを竹竿の両端に下げて持ち帰るということである。人間から出る肥料のお蔭で、支那の土地は今日なおアブラハム時代のように若々しい。支那では小麦が、種を一粒蒔けば百二十粒得られる。・・・大都市は排泄物を作るに最も偉大なものである。都市を用いて平野を耕すならば、確かに成功するであろう。もしわれわれの黄金
が肥料であるとするならば、逆に、われわれの出す肥料は黄金である。・・・世間が失っている人間や動物から出るあらゆる肥料を、水に投じないで土地に与えるならば、それは世界を養うに足りるであろう。』

▼要するにウンコやオシッコを田園に返せ。これが彼の主張である。そして、下水道を完備させて排泄物を川に流し、その結果、河川を汚染させることなど、とんでもないまちがいだというわけだ。ユゴーは、当時の中国の例を取りあげているが、人糞尿の商品化ということでは、完全なリサイクル社会になっていたのは、同時代では日本(江戸時代)にほかならないことは、すでに本コラムでも書いた通りだ。ユゴーが当時の日本にやってきていたら、うーんと感嘆したはずだ。

▼同時にユゴーは、おそらく日本の「豊かな田畑」の、あまりの臭さにへどもどしたはずだ。ユゴーは、「レ・ミゼラブル」の中で、「パリの糞は最上とされている。」とやけに妙な自慢をしているが、この最上というやつこそが、最悪に臭いのだ。これをさらさらの粉末にすることができたら(おまけに臭気も取り除いて)、それこそユゴーが夢にまで見た、究極の肥料ができあがるはずだ。

▼技術革新というのは、なにも、ネットやコンピュータ、ロケットばかりではない。こういうきわめて臭い問題に科学者が首をもっと突っ込んでくれればなと思う次第。

▼それはさて措き、近現代のパリでは、ユーゴーの批判をとりいれたかのように、下水の水を延々20数キロを農地に逆送させて、セロリ畑等の灌水に使用しているという事実があるらしい。

▼この水はパリからパイプで直送されてくる生下水である。濁ってはいるが、においはない。噴き出す力は、ここがパリより低いために働く自然の力だという。畑に流れた下水は、表土に養分を残し、地下に浸透して浄化され、セーヌ川にしみ出して行く。都市化が進んで畑が減り、処理場が必要になった。だが、いまも下水の7%、年約5千tが、処理場を通らずにもろこしやセロリ、ビートの畑に送られている。

▼日本では、大部分がわざわざ石油をかけて償却しているのが現状らしいから、パリはやはりさすが、文化の発信地。当時はアナクロニズム(時代錯誤)と思えたユゴーの思想を吐いて捨てるようなことをせず、大事にあたためて、その後ちゃんと現実にしつつある。ここに、都市のパリ大改造の、凄みがある。ナポレオン三世のときに一気にやっただけで終わりにしたわけではなく、その後地道に進化を模索したのだ。

▼かつて、古代ローマ帝国でさえなしえなかった、下水処理という大問題を、パリは解決しつつある。もちろん、東京でこれをやる場合、大工場地帯があるから、重金属など有害物を糞尿その他の汚泥から除去しなければならない、というハードルはあるのだが。

▼いずれにしろ、ユゴーが言うように、下水は土に返すべきだろう。その意味では、近代式の処理場は、その思想からして間違っている。ユゴーが死んだとき、フランスでは右翼も左翼も、ごぞってその死を悼み、彼に国葬の栄誉を与えた。それは、冗談ではなくこの偉大な作家が、「うんこ」をとても大事にしたからだ、と思う。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄




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