忍者ブログ

増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第305回・歴史の終わり

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

【閑話休題】第305回・歴史の終わり

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-05-29 15:30:00]

【閑話休題】第305回・歴史の終わり

▼以前、一度引き合いに出したことがある、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という著作は、90年代初頭、アメリカで大ベストセラーになった。時折りしも、ソ連が崩壊し、共産主義というイデオロギーの歴史的敗北が決定的となった頃だ。とくにソビエト政権が驚くべきことに最強の武器である核を保有したまま崩壊した点は、象徴的である。かつて、こんなことは起こりえなかった。

▼「歴史の終わり」は、民主主義(デモクラシー)と自由経済が、最後に残るイデオロギーである、という、手放しのアメリカ讃歌だ。世界的にこれが普及・浸透すれば、世界から戦争やクーデターのような事件はもはや生じなくなる、という超楽観論でもある。

▼強権的支配による覇権国家は、歴史においては、すべて崩壊した。しかし、歴史を脱却した民主国家は、永久に存続するという仮説をのべている。共産主義正当化のために使われたヘーゲル哲学の弁証法を、フクヤマは資本主義正当化のために用いている。

▼もちろん、ソ連が崩壊したからといって、そのまますぐに歴史が終わるわけではなく、その達成に向けての道のりは、長く茨(いばら)にみちていることは否定していない。

▼ただ、このフクヤマの議論は、主に政治哲学の歴史論であって、純粋に経済学的な部分は、かなり味が薄い。専門家ではないから致し方ないところだが、民主主義が投票する権利の確保であるのと同時に、資本主義というものは、投資をする権利の確保である。この点が、まさにアメリカのデモクラシーを支えている大きな軸足である。

▼これに引き換え、日本は投票する権利こそは確保されているようなものの、投資する権利が確保されているとは言いがたい。権利を主張するには、その意義がよくわかっていなければならない。民主主義的な教育は施されているにしても、投資に関する教育は、日本の歴史を通じて、今もって皆無である。

▼投票も投資も、同じく市民によるリスクの選択にほかならない。前者は単なる手続きや段取りとしてしか認識されておらず、後者はただの賭博だとしか認識されていない日本の文化の現状は、はっきりいって、幼稚そのものというしかない。

▼なにも、優勝劣敗で、弱者を見捨てろなどという暴論を述べているわけではない。それどころか、日本社会こそ、敗者に鞭打つではないか。社会的な弱者に手厚くすべきだ、と日本人は異口同音に言うわりには、起業をして失敗したりした日には、罪人のような扱いだ。負けても、何度でも復活戦が用意されている社会もつくらずに、弱者に手厚くもないものだ。

▼母子家庭や高齢者、障碍者の生活保障などは、言うに及ばず、日本はアメリカよりも世論の勢いが迫力不足だ。失業保険など、手続きもあり、時間もかかり、結構面倒である。ところが、オーストラリアなどでは、役所に行きさえすれば、即日給付だ。いったいこの国の官僚制度というのはどうなっているのか。繁文縟礼(はんぶんじょくれい、英語ではレッド・テープと呼ぶ。)とは日本という国名と同義語だといってもいい。

▼今、市場ではGPIFの運用方針の外債・株式への拡大が懇望されている。外人が日本を買うか、どうかの大きな分岐点の一つがこの問題だ。これに対して、地上波テレビでは、のきなみコメンテーターと称する得体のしれない人種たちが、「年金を株式投資に拡大するなどもってのほかだ」といけしゃあしゃあとのたまう。怒りを通り越して、国賊ではないかとさえ思ってしまうこのごろである。

▼日本では、未だに、社会主義者が平気でのさばっているということを、まざまざと見せ付けられる次第。この国には、資本主義など到底根付いているとは言えない。まだ歴史が終わらないということだ。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



日刊チャート新聞のコンテンツは増田足のパソコン用ソフト、モバイル用アプリから閲覧可能です。

15日間無料お試しはこちらから
https://secure.masudaasi.com/landing/pre.html?mode=cs
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。