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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第311回・トトロ 後編

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【閑話休題】第311回・トトロ 後編

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-06-06 15:15:00]

【閑話休題】第311回・トトロ 後編

▼メイは、道に迷った挙句、池で死んでいるのだろう。メイが行方不明になったのは、4歳児が一人で隣町まで野山を越えていくこと自体無理があったためだ。サツキは、死してなお、一人では母親のところに行き着けないであろう妹のために、命を引き換えたことになる。

▼二人で猫バスに乗り、(とくにメイの)「母親を見舞いたい」という願いをかなえたのだから、生存していたのであれば、母親に会って当然のはず。しかし、彼らはトウモロコシを窓際に置くだけで、会おうとしない。会うことができないからにほかならない。

▼「いや、それは、二人が妖怪に連れてきてもらったと言っても誰も信じてくれないから、黙って母親の元気な様子を遠見しているだけで我慢したのだ。」という意見もあるかもしれない。それは違う。なぜなら、二人は、父親にもトトロの話をしており、母親にも手紙で伝えている。

▼母親も、先述のように「サツキとメイが笑ったような気がした」と感じたことは、彼女にも実は死期が迫っているということを暗示しているかもしれない。あのドラマ全体が、唯一生き残った父親の、失った家族への懐旧や願望だという都市伝説(というより、解釈だ)は、こうしたところから生まれているのかもしれない。

▼本編が終わって、エンドロールになると、親子ともども、新たな赤ん坊も登場した、楽しそうな日常を描いているが、これはそうであったら良かったのにという、本編の夢、残り香のようなものかもしれない。解釈の一つによれば、父親の願望、こうなっていたらどんなに良かったろう、という世界だという。そこまで飛躍できるか、わたしにはわからないが。

▼もしそうだとしたら、幸せ(生)と悲劇(死)のコントラストは、絶妙である。それは、トウモロコシという現実と、死んだ姉妹(つまり幽霊)という非現実のコントラストでもある。母親の手にトウモロコシが渡ったという事実と、母親には姉妹が見えないという事実のコントラストだ。

▼こうした解釈以外にも、巷ではあの「トトロ」に関しては、通りいっぺんの解釈ではない「異説」がさまざま出ている。そのどれもが的を得ているわけでもなかろうが(うがちすぎもあろう)、一抹の作者の意図がうかがえるフシはある。

▼少なくとも、宮崎駿は、こうした「異説」には公式には否定している。二人の姉妹が実は死んでいるのではないか、という解釈にも否定をしている。それはそうだろう。「そうです。よくわかりましたね。死んでるんです。」と言うわけがない。子供向けということになっている興行用作品だ。ぶち壊しではないか。そもそも、解釈は、受け手の側の権利だ。製作者は、そこまで踏み込む乱暴なことはしない。「秘すれば花」だ。

▼しかし、どう考えても、あの病室を遠見でうかがう二人のシーンは、普通ではない。わたしは、「トトロ」という作品が、日本に昔からある里山の人間の習俗、生き死にの流転と、それを悲劇に終わらせずに予定調和させていた重要な要素である妖怪や魑魅魍魎、精霊信仰などの存在意味を浮かび上がらせたものに思えて仕方がない。

▼「千と千尋・・・」を先に見てなければ気がつかなかったかもしれない。しかし、それくらいの深みを作品に潜ませるのが、宮崎ワールドだと思っている。また、通りいっぺんのハッピーエンドとして解釈しても、それはそれでいいのだ。どっちもありなのだ。目くじらを立てて、どっちが正しいと争う議論ほど、空しいものはない。

▼その人にとっての、トトロが、すべてだといっていい。わたしにとっては、家族というものの生き死にを超えた愛情の強さを、里山の原風景やその暗部(黄泉の国)の中に溶け込ませた感動的なアニメとして心に残っている。どうしても、そのハッピーエンドが、どこかもの哀しい、懐旧や願望のイメージが心の奥に浸み入ってくる。

▼もしかしたら、とこんな風に考えることもある。泣いているメイを、猫バスに乗ったサツキが見つけたのは、六地蔵のところだ。メイはお地蔵さんのところに腰かけて泣いていたのだ。地蔵は、ご存知のように子供の守護神である。六つの冥界を巡って、迷った子供の魂を救済する。サツキの命がけの行為(取引)で、ひょっとするとメイは死ぬ寸前で、救われ、現実世界に舞い戻ってきたということを暗示しているのかもしれない。

▼だとすると、文字通り、あのアニメは、完全無欠のハッピーエンドということになる。解釈は、自由だ。ああでもない、こうでもない、と言い合っているわれわれ観客の様子に、宮崎駿もにこにこしながら「違うんだなあ」と悦に入っていることだろう。

※お知らせ:
長らく、ご愛読いただきました閑話休題ですが、ここもと大変業務上の負担が多く、なかなか連日掲載には無理が生じてきております。このため、来週からは、金曜日に一度、原稿アップをすることといたしました。途中、水曜日には、過去掲載文をリバイバルで掲載いたします。
大変、勝手ではありますが、なにとぞご了解いただきますようお願い申し上げます。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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