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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第321回・KWAIDAN

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【閑話休題】第321回・KWAIDAN

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-08-15 17:15:00]

【閑話休題】第321回・KWAIDAN

▼お盆である。お盆に墓参りをするというのは、よく考えてみれば、おかしなことだ。死者たちは、家族のところにやってくるのだ。墓にはいない。ちょうど、例えは違うが、神無月(かんなづき、10月)には、神社に詣でることをしないのと同じだ。

▼神々はみな、出雲に行かれているので、地元の神社にはいらっしゃらない、という俗説である。お盆に墓参りするというのは、彼らの留守宅に御機嫌伺いをするようなものだ。そもそも、お盆は迎え火、送り火をするわけで、家で彼らの来訪を待つのが筋なのだろう。おそらく、お盆に墓参りをする人が結構多いのは、お墓にご先祖たちをお迎えにいくというところから来ているのかもしれない。だから、お盆にお墓参りをして、掃除をしたり、するのだろう。ちなみに、わたしの実家では彼岸にお墓参りをし、お盆にはしたことがない。

▼ということで、今回は、一つ怪談を書く。苦手な人、頭から否定している人は読まないように。もっとも、どれも怖い話ではない。そう怖がらなくでも大丈夫だ。

▼わたしが最初の香港駐在の頃、出張先の中国・蘇州で、寒山拾得(かんざんじっとく)と、寒山寺・楓橋夜泊の七言絶句の拓本掛け軸を購入した。蘇州の寒山寺の落款入りのものだ。わたし自身大変気に入ったもので、上海から日本の父親宛に送っておいたのだ。その後、彼も大変気に入って、床の間にいつも飾っていたという。

▼ずっと時代が下り、2006年12月22日。すでに父親が亡くなってから、十四年が経っていた。その日、母親がなんの予告もなく、やってきた。ふつうこういうことは無い。不在だったらバカバカしいと、ことのほか思う母親である。必ず、先に電話をしてくる。

▼わたしは、その日来訪した母親が持ってきたものを、一つ一つ開けてみた。「それらはみな、あんたのもの」だという。実家のほうにあってもしょうがないので、持てるものだけ、持ってきた、というのだ。

▼その中に、寒山拾得の掛け軸があった。わたしは感慨ひとしおで、それを開けて、早速どこに飾ろうか、と思っていると、家内が「あれ。これはなに?」と言う。彼女は、掛け軸の箱の中に折りたたんである、黄ばんだ一枚の紙を指していった。それは、一枚の和紙だった。

▼父親の筆跡によるものだった。久しぶりに見る父親の筆跡は、万年筆で書かれたもので、あまりの懐かしさにわたしも感無量だった。寒山拾得について、ことこまかに解説してあった。

▼字の上手な父親らしい、非常に達筆なもので、A4くらいの和紙だが、かなりきめ細かくしっかりした材質だ。万年筆のインクにまったく滲みがない。しかも、びっしりと書かれてあるのだ。恐らく、百科事典のようなものを引いて、そこから抜書きしたりしてまとめたものだろう。文中には、上海にいるわたしから送られてきたものだ、ということまでいちいち書いてある。よほど、気に入っていたということらしい。わたしにはそう思えた。

▼ところが、それだけではなかった。家内は、「ねえ、今日って、何日?」と言う。12月22日である。その黄ばんだ紙には、最後に、それを書いた日付が記してある。彼女はそのことを指して言っているのだ。そこには12月22日と記されていた。1986年、つまり二十年前の同じ日だ。

▼母親も、この父親の書付そのものの存在を知らなかったし、ましてや掛け軸の箱にそれが隠されていたことも知らなかった。これを偶然の一致というのは、簡単だ。死者から送られてきた、なんらかのサインだと思うのも、もしかしたら思い違いかもしれない。

▼しかし、その日、滅多に来ない母親がやってきたこと。持ってきた物の中に、その掛け軸があったこと。書付には、まさしく二十年前のその日であることが示されていたこと。わたしも母親も、その書付の存在に気づかず、早速掛けようとしていたところ、見つけたのはあろうことに、霊感の強いわたしの家内だったこと。彼女が居合わせていなければ、その存在は長く知られることはなかったかもしれない。

▼ましてや、母親はもともとその日、うちに来る予定はなかったのだ。ひょんなことで思い立ち、突然やってきたのだ、という。考えれば、考えるほど、不思議な偶然が重なっている。

▼父親の声が聞こえてきそうだ。「ずいぶんこの掛け軸には楽しませてもらった。しかしもう用はない。お前に返す。」そんな風に思うのは、生者の勝手でもあり、思い込みの所産とも言える。しかし、そういう些細なサインが、死者とわたしたちをわずかにつなぐ、唯一の、そしてかけがえの無い絆だと思うのだ。これを「怪談」と呼んでいいかわからないが、少なくとも12月22日、それは、ある意味、父親の命日以上に、また毎年、彼が我が家にやってきているであろうお盆以上に、わたしには忘れえぬ日付となった。

▼怪談というと小泉八雲の英文原作「KWAIDAN」が、日本の怪談文化を世界に広めた名著として知られているが、今読んでも、十分にその内容には耐えるものがある。彼は、日本人家族や友人、女中などからさまざまな日本に昔からある怪異譚を聞き取り、小説化したのだ。

▼なかでも「雪女」などは、日本全国でその伝承が残っているが、小泉八雲がこれを書いたそのモチーフは、実は秩父・青梅の話だ。小泉八雲の家に奉公していた女中の親子の実家が同地域で、彼女から聞いた話が元になっている。現在でも、青梅の、秋川街道が多摩川をまたぐ「調布橋」のたもとに、昔の舟の渡し場の跡が残っており、そこにあった番小屋が雪女伝説の一つの発祥地であることが確認されている。

▼怪談という世界を、学術的に真正面から取り上げた数少ないものに、柳田國男の「遠野物語」がある。岩手県遠野市には、昔から怪異譚が過剰なほど残っており、それを蒐集したのが、この画期的な日本民俗学の金字塔的な作品である。

▼その中には、なにも昔の話ばかりではなく、当時、同時代に起こった事象も、漏れなく書き取られている。その一つを紹介しておこう。

▼戦争中の兵士が現地で意識不明となったときに、幽体離脱をして故郷へ帰った話だ。
かなり以前のことだが、それと似たような実話を、さる新聞で読んだことがある。実は、この遠野物語に載っている話と、きわめてよく似ているのだ。まず、新聞に掲載されていた話から書いてみよう。うろ覚えなのだが、概ね次のような話だった。

▼その男性は、中国大陸へ転戦していたのだが、徐州戦線でチフスにやられ、前線から後送された。三日間、人事不省に陥っていたが、そのとき夢を見たのを覚えているという。故郷(東京都大田区六郷であったと記憶している)に確かに戻ってきていたというのだ。ちょうど、多摩川まで来たところ、川の向こう側にたくさんの人がいて、こちらに手招きしている。こっちへ来い、ということらしい。よく見ると、その人たちの中に見知った人も何人かいたのだが、すべて亡くなっている人だったという。

▼彼は、けっきょく川を渡らずに戻ってきてしまい、ふと気がつくと、野戦病院に収容されているのに気がついたというのだ。実は、彼が昏倒していた三日間に、彼の実家ではとんでもないことが起きていた。内地に復員してきてこの事実が明らかになった。

▼夜半、両親や奥さん、子供たちが一緒に夕食を取っていたときのこと。雨戸は閉めていた。すると、突然、雨戸の閂(かんぬき)が外れて、がらがらっと開いたのだそうだ。みんなが、驚いて外の庭を見ると、庭先の暗闇の中に戦争へ行っているご主人が、軍装のまま突っ立っていたというのだ。

▼みな口々に、「一体、いつ帰って来たの?」と声を掛けると、そのご主人はすうっと消えていった、というのだ。家族全員が目撃者であり、彼らはこの一件で、ご主人が戦死したことを覚悟した、という。

▼しかし、一向にその後戦死公報も出ず、どうなっているんだろうかと、いぶかっていたところ、ご主人は病気療養のため、復員してきたのである。聞けば、実家で起こっていた怪異は、彼が中国で人事不省に陥っていた三日間のうちの1日だったそうだ。

▼このケースの場合、ご主人は幽体離脱をしている間、故郷には帰ったものの、六郷の実家には訪れた認識はなかったのだが、本人の自覚とは別に、確かに帰ってきていたのだろう。

▼柳田國男の「遠野物語」に査収されている話では、岩手県の実家に戻っており、家族のそれぞれが料理をつくったり、なにをしたり、というのを幽体離脱した本人が見て、蘇生した後、その内容をことこまかに覚えていた。また、逆に村人も、同日の昼間、前触れなく復員した彼の姿(幽体)を村のあちこちで目撃している。ところが、この話の不思議なことは、家族たちは、彼の来訪に気づくものが一人もいなかったということだ。

▼わたしが新聞で読んだ幽体離脱の話は、この「遠野物語」ほどは本人の自覚はないものの、目撃した側としてはかなり決定的であろう。家族全員が同時に目撃しているのであるから、とても錯覚とは思えず、これ以上のものはない。

▼わたしも、わたしの周囲にも、この幽体離脱という話は皆無だ。聞けば、これは訓練次第で出来るという説もある。魂というのは、玉の緒というのがあり、これを自由に伸縮させるというのだが、仮に訓練でできるようになるとしても、粗忽なわたしのことだから、へまをしでかして二度と戻れなくなってしまったら大事だ。絶対に試みようとは思わないだろう。

▼この錯覚か、事実かという問題は、怪談(実話系も含めて)の真偽でもっとも争点となるところだが、それを実際見た人には、錯覚にすぎなかったか、それとも本物かがわかっている。曖昧なときは、たいてい錯覚か思いすごしだ。しかし、本物の場合には、それが事実だと五感でわかる。

▼わたしも50年以上生きてきて、たったの2度だが本物を見たことがある。そのうちの一度目などは、おどろくべきことに2分間以上凝視し、その間、「見知らぬ男」が目の前2mの至近距離に立っており、蛍光灯が煌々と照らしている中でのにらめっこである。しかも、透き通ってなどおらず、まったく物理的実体を伴った姿で存在していたのだ。まるでふつうの人間が、そこに立っているのと寸分も変わらない。蛍光灯の明かりによって生じる、服の細かいシワや影までくっきり鮮明であった。

▼夜11時すぎ。わたしはパソコンでNY市場を追いかけていたときに「異変」に気づいたのだ。その男が、「見えない衝立」の向こう側に消えていくまでの2分である(パソコンの時間表示を、見始めたときから、彼が消えるまで、メモっておいたので間違いない。)。錯覚であるはずもない。実際に2分間、ストップウォッチで測って見て欲しい。とんでもなく長い時間なのがわかるはずだ。これを見間違い、錯覚だと考えるほうに無理がある。今にして思えば、触って見ればよかったとかえすがえすも後悔しきりである。それほど普通の人間のように、そこにいたのだ。表の群衆の中で見ていたら、それが幽霊だとは絶対に気づかない、そういう体(てい)で存在していたのだ。

▼俗に「怪談」、あるいは「実話系怪談」と呼ばれているものは、その多くが話にオチがある。しかし、オチのない、まったく意味不明な話のほうが実は多いのだ。わたし自身経験しているうちには、生まれてこの方まったく知らされていなかった、秘された事実を教えられる驚くべき怪異譚もいくつかあるが、それを除けば、ほとんどは実はまったく意味不明。なんのためにこういうことが起こっているのかちんぷんかんぷんということのほうが圧倒的に多いのである。

▼さて、次にわたしの義弟が経験した、これまた意味不明の出来事を紹介しておこう。これも怖くはないが、あまりにも不可解な話である。

▼義弟は、都内中心部で床屋のチェーン店に勤めている。その日も、夜遅く、仕事がおわり、国立市の自宅の妻にメールした。「これから帰る」。いつもは、妻からは返事がない。赤ん坊を寝かしつけるので、とうに眠っているのだ。ところが、その日に限って、折り返し、返事が来た。「何時ごろになる?」「今からだと、零時すぎる。どうした?」「とにかく早く帰ってきて。」

▼こんなやりとりをすることは、まず無いそうだ。不思議に思いながら義弟は帰った。家は、妻の実家だ。婿入りなのである。昔の地主の家だから、とにかく大きい。母屋と離れと、土蔵まで残っている。敷地内に先祖代々の墓があるくらいだ。

▼さて、義弟は門扉を開けて、ふつうの家より長いアプローチを通って、玄関まで行った。当然、鍵がかかっているはずなのだが、なんと開いていた。

▼1軒家。玄関の引き違い戸というのは、昔は真ん中に昔ながらの「中折れネジ締まり錠」が付いていたものだ。嫁の実家もそうだった。この「中折れネジ締まり錠」と言うのは、家の中と外の鍵が別で、家の中から鍵をかける場合は、ネジのようなものを差込んでクルクルまわして閉める。キーキー音がしたものだ。また、外出時に外から鍵をかける場合は、通常の鍵のように鍵をさして回して閉めるのである。

▼それが、開いていたのだ。なんと無用心な、と義弟は思いながら、玄関に入った。そこは、昔ながらの土間である。そこには、翌日早朝に出すビニールのゴミ袋がどんと置いてあった。「これは、明日出すやつだな」と思い、彼はセカンドバッグを下駄箱の上に置き、ゴミ袋を持って、また出て行った。門扉の外の電信柱のところが、所定の場所だ。そこにゴミ袋を置き、また玄関に戻った。その間、わずか1分少々である。

▼玄関を出たときには、両手にゴミ袋を持っていたので、引き違い戸は開けっ放しにしていた。ところが、戻ってくると戸が閉まっている。「?」と思いながら、それを開けようとすると、なんと今度は鍵がかかっていたのだ。

▼先述したように、引き違い戸というのは、中から鍵をかける場合、ネジ式であるから、キーキーとうるさい音を立てる。ところが、ゴミ袋を出しに行っていた1分少々の間、この音も、引き違い戸のガラガラ、トン、といったような閉まる音も、なにも聞こえなかったそうだ。

▼「なんだこりゃ」・・・義弟は、当然、締め出されたと思った、頭にきたのである。鍵をだそうとしたところ、セカンドバッグを下駄箱の上に置いてしまったのに気づいた。鍵がない。幸い、携帯電話をズボンの後ろポケットに入れてあったので助かった。すぐに妻に電話した。

▼妻は、電話を取ることもなく、二階の窓を開けて、下にいる義弟に声をかけた。「おかえり」「なに玄関、閉めてんだよ。早く開けろ。」「閉めてないよ。夕御飯から、一度も一階に降りてないもの。」「なんでもいいから、さっさと開けろ。」「鍵持ってるでしょう。」それで、彼はこれまでの経緯を説明した。

▼「いいから、早く降りてきて、開けてくれ。」「いやだ。」「なに言ってんだよ。」といったように地上と二階の間で押し問答が繰り返された。そこに、一階で寝起きしている義理の母親が電気をつけて、起き出してきた。そして、玄関の鍵を開けてくれたのだ。

▼「お母さん、今さっき、この玄関、鍵閉めました?」「いいえ。あんたたちが、表でうるさいから、起きたのよ。」

▼いったい、どうなってるんだ、と義弟はいぶかしながら土間に入った。すると、彼のセカンドバッグは紛れもなく下駄箱の上にあったのだ。つまり、彼は、一度は確かに玄関に入ったことになる。

▼二階で妻を問いただすと、いわくこんなことだったという。彼女が赤ん坊と一階で食事をしていた。すると、一階のそのほかの部屋や廊下で、誰かがうろうろ歩く音がひっきりなしにした、というのだ。母親に言っても、聞こえたり、聞こえなかったりで、気のせいだ、と取り合ってくれない。怖くなった彼女は、食事も早々に、二階に引き上げた。

▼子供を寝しつけている間中、その足音が、今度は階段を上り下り繰り返したというのだ。だから、一階に降りていけない、と言ったらしい。彼女は、この実家で生まれ、育ってきた長い年月の間、こんなことはなかったという。

▼実はこの家、リノベーションをしているものの、もともと非常に古い昔の民家そのものであり、義弟が婿入りしてからというもの、彼自身数多くの奇怪な現象に遭遇している。気の毒なことに、どうも、彼がこの屋敷にとっては、なにものかを動かす媒介変数になってしまったらしい。

▼なにも今回ばかりではない。なにを言おうとしているのか。なにが目的なのか。まったく意味不明である。「いじわる」「いやがらせ」のようにも見えるが、それはこの「事件」だけで、ほかに多発している奇怪な現象というものには、そうした意図はかいまみえない。結局、いまだになにものの仕業かも、皆目見当がつかない状態のままである。だいたい、ご先祖様といっても、いいものばかりとは限らない。意図的にせよ、結果的にせよ、子孫に災禍を及ぼすようなものも、中にはいる。神様ですらそうだ。「悟ってなければ、ただの神」と仏教ではいうが、中には怖い神様もおられる。

▼昔から日本には、「百物語」という風習がある。みんなで集まり、怪談を順番に語る。一話ごとにロウソクを消す(これには、最初から百本並べる必要のないように、別の便法がある。やってみればわかるが百本のロウソクが集中的に並べられたら、とても暑くてたまらない。)。そして鎮魂の意味の場合には、99話で止める。それが降霊を目的としている場合には、百話目を話す。そこでなにかが起こる、というものだ。

▼日本の文学史上、非常に有名な「百物語事件」というのがある。事件といっても、犯罪ではない。

▼大正年間、名だたる文人墨客名優たちを集めて幾度も催された百物語怪談会なのだが、座の中心には泉鏡花(「高野聖(こうやひじり)」ほか、多数の怪異譚の作者として知られる)がいた。そのほか、喜多村緑郎、平山蘆江がいた。ときに柳田國男や芥川龍之介らも加わった、文豪たちの「怪談会」だ。盛夏の風物詩として新聞雑誌でも詳報された。

▼大正2年7月の怪談会は、東京京橋の画報堂で行われたが、萬朝報(よろずちょうほう)の社員石河という、参加者の誰も知らない人物が飛び入りで参加。この人物が、幕末の志志士・田中河内之介(たなかかわちのすけ)の非業の死の秘密を明かすというので、メンバーはみな彼に話を譲ったという。

▼ところが、この石河なる人物( 58歳)は、前置きが長く、話が佳境に入ってくると、話が元に戻ってしまい、最初から同じことをずっと繰り返した。目も虚ろになってき、メンバーは呆れて、一人帰り、二人帰りと減っていった。残り少なくなった参加者が、電話や小用などで席を外し、戻ってみると、この石河某は突然絶命していたという事件である。

▼正確には、みなが慌てて高輪病院にかつぎ込んでから絶命したということらしいが、その間、ずっと「田中河内之助が」とずっと繰り返していたそうだ。

▼なにゆえ、この人物が怪談会に参加したのか、死因はなにか、など特定できていない。脳溢血ではないか、とも言われているが、現在でも不明である。この経緯は、怪談会に参加していた池田弥三郎(国文学者)の父親の談で明らかになっている。

▼翌年から三年ほど、くだんの「怪談会」は取りやめとなったらしい。これそのものが怪談ではなかろうが、以来、田中河内之介の話は、その筋では御法度という不文律が出来上がった。「さわり」があるかもしれない、ということだ。しかし、民間では、この「百物語」自体は、今でも、多くの「ファン」がおり、現在でも夏の夜の催しものとして、厳然として生き続けている。

▼以前知人から聞いた話がある。友人たちとマンションで百物語をやったそうだ。結構時間がかかるようだ。夕方から始めて、終わったのが明け方だったという。百話すべてを順番に語ったところが、なにも起きない。「なあんだ、結局迷信じゃないか」「まあ、そういうことだよね。」ということで、三々五々に帰っていった。

▼その様子を、最初から最後まで、何本ものカセットテープに録音しておいたわけで、彼は、暇にあかせて、聞き返してみた。すると、その中の、最後に近いところで、一人が話している内容というのが、まったく怪談ではなかったのだ。

▼まったくプライベートなことを、だらだらと話しており、みんなはもう明け方が近づいてきている時分だけに、寝ている者もいれば、酔っ払ってしまっているものもいる。ほとんど聞いていない状態だったらしい。

▼ところが、問題は、その人物を特定できないのだ。彼は、その声にも聞き覚えがないし、その話の内容にもまったく覚えがないのだ。彼自身、寝不足と疲労で、そのころにはどうでもよくなっていたのかしれない。

▼そこで、ことあるごとに、参加者に聞いてみたそうだ。こういう話をしたのは、誰だと。ところが、誰もわからない。とうとうみんな気味が悪くなってき、一度全員で彼のマンションに集まり、みんなで聴き直してみようということになった。

▼「これは、俺だよ。」「この話は怖かったな。」といったように、結構それはそれで酒の肴として、面白い宴になったようだ。そして、その問題の怪談の下りがきた。ところが、一堂に集まった誰の声でも無く、また誰もこの人物(男)を知らず、そもそも誰もこの男の話、小さな声でぼそぼそとなにやら話しており、ときどき判別できる言葉からは、とても怪談という代物ではなかったようだ。つまらない日常や自分のことを、とりとめもなく話しているような内容で、しかもそんな話そのものがあったことを、誰も覚えていなかったというのだ。「こいつは一体誰だ?」ということになる。みな、たちまち怖くなってしまい、その夜は、全員固まってそのマンションで寝て、誰も一人で家に帰ろうとしなかったそうだ。ちなみに、この話、夏ではなく冬に起こっている。またこの不明の人物の語りは、九十何話くらいの段階で行われており、百物語が終わった後ではない。

▼わたしの経験では、実際の怪異譚というものは、ざっくりとした私的な統計では、圧倒的に冬場の話が多い。夏は、意外に少ないのだ。いつの頃から、怪談が夏の風物詩になったかわからないが、熱帯夜、少しでもひんやりしたいという庶民の思いが、そうさせてきたのであろうか。

▼近年では、現代の怪異譚(いずれも実話怪談。創作怪談ではない。)ばかりを集めた「新耳袋(しんみみぶくろ、中山市朗・木原浩勝)」が大変なベストセラーとなり、映画化もされた(映画のほうは、かなり脚色が濃く、原作の事実をベースとした話から、相当乖離している。)。

▼もともとは、江戸時代のある有名な奉行(ぶぎょう)が仕事柄聞き取ったさまざまな怪異譚を個人的にまとめていた「耳袋(みみぶくろ、いわゆる、江戸時代版の「Xファイル」である。)」なる覚書があり、これを踏襲する形で、現代の実話怪談を蒐集した内容になっている。全巻とも、古式に則り、99話までで一巻としている。最後の1話は書かれていない。

▼この種の話題を嫌わない御仁は、一つ試みられてはいかが。なにが起きても、わたしは知らぬ。
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葉月(はづき、八月)宿せし暑き夜 七つ重ねた宵闇の
一夜限りの宴(うたげ)には あなたこなたの席がある

この世の夏の盛りには 水の如くに冷たくて
人の心を惑わせて 円を描いて座らせる
百の語りがあると聞く

耳を塞いでみたけれど 顔を覆ってみたけれど
指の隙間で見て聞いて 何故か惹(ひ)かれる
怪しい話

蝋燭一つ携えて
いらせられませ 闇の中

百の明かり 灯(とも)る場所
全て消えれば

何が起こるや
降りるやら

いざ 百物語 開宴
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