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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第322回・パワースポット、こっそり教えます

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【閑話休題】第322回・パワースポット、こっそり教えます

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-08-22 15:11:00]

【閑話休題】第322回・パワースポット、こっそり教えます

▼近年パワースポットが大流行りだ。そこになにを求めているのかは、人それぞれなのだろうが、平たく言えば、幸運を招く「装置」のようなものだろう。他人のことだから、どうでもよいのだが、あのスタンプラリーのように、片っ端からパワースポットなる場所に殺到するあの集団心理は、おぞましさすら感じる。自分が訪れたところが、そんな集団に出くわした日には、露骨に不快感を覚える。

▼たとえば、神社を訪れるとしよう。某雑誌に紹介されていたパワースポットとして、そのその神社の御神木がある。鳥居もくぐらない、一礼もしない、本殿にお参りもしない。御神木に直行である。そこで、パシャパシャとスマートフォンで写真をとっては、誰彼構わずメールで送りまくり、自分勝手に感に堪えたような気分になって、嵐のように去っていく。

▼だいたい信仰を伴わないパワースポットなど、なんの効果もない。もし、物理的になんらかの人体や神経、精神構造に影響を与えるものがあるとしたら、海流、地場、あるいはマントルの噴出口といった、きわめてスケールの大きい自然の影響力がある場所だけだろう。

▼海流の合流地点としては、能登半島の先端。地場では、フォッサマグマ、たとえば、長野県の分杭峠(ぶんぐいとうげ)、あるいはマントルなど地殻エネルギーということでは、富士山火口などは、なんとなくそうなのかな、と思えたりもする。

▼だいたい、パワースポットというのは、誰が言い出したか知らないが、一番身近にあるものは、御先祖様の墓所に決まっている。家に仏壇があるなら、そこが一番の聖域だ。物見遊山で訪れるパワースポットなるものは、そもそも縁もゆかりも無い場所であることがほとんどだ。自分が住んでいる地域の地主神の神社が、どんなに規模が小さかったとしても、一番本人には霊験(れいげん)もあらたかなのだ。灯台下暗しとはこのことだ。

▼こうしてみると、やはりパワースポットに求めているのは、そうした霊的なものというよりは、むしろ自然エネルギーということにでもなろうか。イオンを浴びるという実利目的だとすれば、うなづける。それになにかオカルト的な超自然的なものを味付けするから、話がなんだか新興宗教のような怪しい代物と化してしまうのだ。

▼パワースポットと呼ばれる場所で、確かに、「心が洗われる」「リセットされた気がする」といったような気分の問題は、あるだろう。それが本当のところどうなのかはともかくとして、本人がそれで前向きになれる、元気になれるのであれば、それはなによりだ。

▼信仰や霊的アプローチということではなく、純粋に自然の治癒力にリセットしてもらおうというのが目的であれば、日本のように自然が豊かな国だ、いくらでも素晴らしいところがあるだろう。観光名所の写真を見るだけでも、心が涼しくなってくるところは結構あるものだ。

▼ちょっとここで、子供連れでレジャーもかねて、目の覚めるような自然に触れる場所をこっそり紹介しておこう。お盆も終わったことで、夏は峠を越えたわけだが、じつは海で遊ぶにはおあつらえ向きのところがある。

▼地方にはいくらでも綺麗な海はあるだろうが、首都圏から足を伸ばしたあたりに限定すると、なかなか無い。海水浴場は、どこへいっても芋洗状態。ところが、伊豆半島の南端、石廊崎からさらに先にまで車で行くと、中木という小さな漁港の集落がある。ここまでくると、さすがにそうした人ごみは少ない。そして、ここが、わたしの秘密の場所だ。

▼伊豆に、子供の頃から縁があったので、毎年夏休みとなると、伊豆でずっと暮らしていることが年中行事だった。電気も通じておらず、まったくのランプ生活だったが。しかし、伊豆といえども、たいていはどこへいっても夏はやはり芋洗い状態に変わりはない。しかも、普通に綺麗な海である。

▼「浜」と呼称しているが、磯である。それこそ目を見張るような綺麗な磯と、信じられないくらいの魚の群れと遊ぶことができる場所の一つが、この中木だ。中木から、頻繁に漁船が出ており、ものの5分くらいで、ヒリゾ浜に渡してくれる。船でしか、行くことができない地理的環境であり、国立公園でもあるから、まったく開発されていない。

▼付近に川も無く、黒潮の通り道であり、季節回遊魚や大型の回遊魚も通る。スキューバではなく、シュノーケリングで十分だ。枝サンゴの群生もあり、およそ首都圏からちょっと足を伸ばしただけで、こんなところがあるとは、誰も想像できないだろう。

▼長じてから知ったのだが、ヨットに乗る人たちの間では、案外知られているらしい。天候不良の折などに、この水道が避難場所に使われると聞いた。切り立った断崖と、目の前には大根島という無人島(これもとてつもない断崖絶壁で周囲が固められている)との間の狭い水路に沿って、ヒリゾ浜があるのだ。この水路(水道)には、小さな岩島がそこかしこに点在しており、とくに午後、引き潮になってくると、潮流も穏やかになってくる。十分に足が立つ。その透明度といい、魚の多さといい、天然のプール状態となる。およそこの世の風景とは思えない。

▼腰当たりの深さのところでさえ、20-30cm級の魚がうようよ泳いでいるようなところだ。お子さん連れなら、(小学校2-3年生以上なら、楽しめるか)歓声しきりだろう。小さな岩島には洞窟が複数あり、なんと向こう側に泳いで抜けることができる。アドベンチャー色満載のワイルドな竜宮城だ。ちなみに、中木の漁船が監視役として、水道の中央に錨を下ろして、いつでもなにかあったときのためにスタンバイしてくれている。

▼ただ、難点は、ヒリゾ浜そのものは面積が狭いので、浜自体はラッシュである。それほど知られていないものの、季節ともなれば、それなりにやってくるから、立錐の余地もなくなる。また、水道もなにもないから、アイスボックス持参で、食料・飲料、マットなど、一切合切持参していかなければならない。あるていど頭数を揃えて行かないと荷物が大変だ。

▼いくらわたしがここで説明しようと、その「心が洗われる」海の中の世界は、説明しきれるものではない。一度、時間があれば、南伊豆町観光協会のホームページをご覧になったほうがいいだろう、これが首都圏からそう遠くないところの海だとは信じがたいものがあるだろう。人間が、自然に帰った気がするような、物理的にポジティブな作用・効果としては、かなりのインパクトがある海の中の世界だと思う。

▼わたしの経験では、9月に入ると、ぐっと人も減り、とくに午後の引き潮のとき、ヒリゾ浜の海の中はことのほか明るく、時間の経つのをついつい忘れるくらいだ。海水も柔らかい。台風さえ来なければ、実は9月がベストシーズンだと思っている。

南伊豆観光協会ホームページ

http://www.minami-izu.jp/entry.html?id=11366

▼旅行の計画としては、近郊の下賀茂温泉や下田に宿を取り、中木まで車で乗り込むというのが一般的なのだろう。まったくのシュノーケリング三昧をしたい向きは、中木の民宿に直接宿を求めるしかない。なにやら、観光案内めいてきた。ネタが尽きているので、こういう雑談めいたコラムになった次第。なかなか伊豆にまで足を運べない方には、つまらないかもしれない。ご容赦。

▼さて、パワースポットだが、ヒリゾ浜から都内・首都圏に帰るというのであれば、伊豆高原・八幡野に、八幡宮来宮神社(はちまんぐうきのみやじんじゃ)という古社に立ち寄ることができる。もとは、八幡野港の岩屋(洞窟、「堂ノ穴・金剛津根」と呼ぶ。)から始まった拝所だ。今でも岩屋には、石仏などがあり、祀られている。この八幡宮来宮神社も、有名ではないかもしれないが、巨木群に包まれた苔むした自然の境内は、曰く恐怖を覚えるくらいの荘厳さに満ちている。樹齢千年の「高見のシイの木」などが、訪れる人を睥睨(へいげい)している。

▼神様を前にして、「恐怖を覚える」とはまた不穏当な表現かもしれないが、あまり霊感のないわたしが言うので話半分としてもらって構わない。なにしろ、曰く言い難く、空気が違うとはこのことだ。境内の社叢そのものに、なにかとんでもないものが息づいている。

▼けして大きな社ではない。むしろ小さい。しかし、その霊的な存在感は圧倒的なものがある。わたしですら感じるのだから、かなりのものだ。わたしも全国、多くの寺社を詣でてきたと思うのだが、正直、「寄りつき難いほど重いパワー」を感じたのは、この八幡野の八幡宮来宮神社以外にそうは多くない。これをパワースポットと言わずになんとしよう。小さな社そのものではなく、その山あいの巨大杉が鬱蒼と茂る空間全部が霊域となっている。

▼詣でる人は、地元を除けばほとんどいない。けして、優しい神様ではなさそうだ。どちらかというと、怖い。もはや神や霊という認識も失われ、まったく自然に同化してしまった何ものかのようだ。清らかな、清々しく、神々しい心と体のリセットを望むというのとは、いささかわけが違う社だと思っている。

▼「怖い」と思うくらいのこの古社を、むしろ日常、欲と怠惰に塗れた生活にどっぷり浸っているだけに、わたしは昔からとても大切にしている。「怖い」とすら思える社は、増上慢になりがちなわたしにとっては、貴重だ。とても「お願い事」などお祈りできる風情ではない。なんでも良いからとにかく「ありがとうございます」と申し上げるのが精一杯なのだ。

▼なかなか、東京からでもちょっと出かけてくるというような距離ではないから、今では一年に一度詣でることができればいいほうだ。ちなみに、すぐ大鳥居の前に、かつての神宮寺であろうか、社を管理しているお寺と住宅がある。が、境内そのものは、無人である。ちょっと霊感の強い人だと、下手をすると「当てられる」こともあるかもしれない。遊び半分ではとても足を踏み入れることができないような、そういう雰囲気であることは、行けばわかる。

▼気持ちが良くて、すっきりとしたり、癒されたり、活力をもらったりと、世の中のパワースポットというのは、そういうなにかポジティブな効果ばかりを求めているフシがある。が、わたしにとっての八幡宮来宮神社のように、ひれ伏し、畏怖し、思わず懺悔してしまうような聖地も、一人の人間には必要なのではないかと思ったりしている。

▼誰もが一箇所や二箇所、おそらくは持っているであろう、自分のパワースポット。きっと、何らかの縁がある場所に違いない。あなたが大切にしている「その場所」、もしかしたらそれと気づいていないだけの「その場所」は、日本のどこの聖地よりも、きっと一番あなたにとって効験があるはずだ。テレビや雑誌に踊らされるのは、滑稽にして軽薄のきわみだ。あなたの「秘密の場所」こそが、世界で一番インパクトの高い聖地なのだから。

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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