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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第324回・百回の嘘と、一万回の真実(前編)

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【閑話休題】第324回・百回の嘘と、一万回の真実(前編)

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2014-09-05 16:53:00]

【閑話休題】第324回・百回の嘘と、一万回の真実(前編)

▼嘘でも百回言えば、事実になってしまう。それが外交という世界の非常識性だ。中国や韓国が、二言目には「日本の軍国主義」を阻止しなければならないと言い続けているのはその典型的な例だろう。

▼彼らは歴史を捏造するばかりではなく、とどのつまりには、「日本人は、侵略の遺伝子をもともと持っている、危険な民族なのだ。」とさえ言う。冗談ではない。三韓征伐があったかどうかわからないが、平安時代以降、朝鮮半島や中国大陸に日本が侵攻していったことは、たったの一回、戦国期にあった秀吉の明国出兵(朝鮮出兵)だけである。

▼対外戦争という意味では、明治期になるまで、世界でも稀に見る不戦の国家だったのである。日本は、戦国の百年を除けば、ほぼ「のほほん」と穏やかな歴史がずっと続いていた。それにくらべて君たちはどうだ。この千年以上というもの、戦乱のない時代のほうが珍しい。

▼むしろ虐殺と、暴政と、内乱が延々と繰り返されていたのは、君たちの歴史だ。暴力にかけては、君たちのほうが専売特許だ。暴力には遺伝子的に「慣れっこ」になっていたはずの、その君たちは、19世紀、西欧列強が押し寄せてきたときには、日本も含めて、みんなが頼りにしていたのだ。殺し合いが大好きな大中華と小中華(朝鮮)なのだから。それがどうだ、なんというだらしない有様だったか、思い返せば良い。こてんぱんにやられたではないか。「これは、やばい」と、そこで日本人は肝を冷やしたのだ。

▼人類の歴史が始まって以来、常に東方は西方の圧力に屈してきた。オスマントルコも破れ、ムガールも敗れ、大清帝国も主権を失った。東方が西欧列強のくびきに虐げられたとき、最後の最後に土壇場でちゃぶ台をひっくり返したのは、誰だ。君たちが憎悪する「大日本帝国」ではないか。

▼アジアがほぼ植民地化されているという絶望的な状況下で、たった一国、無謀な賭けを何度も制して、ついに歴史の歯車を逆回転させたのは、戦争と内乱が日常茶飯事だったはずの君たちではなかった。君たちは過去の栄光を自尊するばかりで、一番大事なときに、立てなかったし、立とうともしなかったのだ。

▼立ち上がったのは、千年にわたってほぼ不戦を通した日本だけだっだではないか。自国の歴史を誇り、日本の歴史を蔑視する前に、まずどれだけ自分たちが、情けなく、だらしない国家の有り様を見せたのか、まずはじっくり、見直してみたらよい。

▼当時アジアが、ナメていた「近代」というものを、身をよじるようにして自家薬籠中のものとし、維新を成し遂げ、さまざまな矛盾や問題を孕みながらも、頑迷な守旧にこだわる大清帝国の不甲斐なさを天下の下に晒し、最大の強国ロシアの侵略を撥ね退け、それこそ満身創痍で、西高東低の歴史に異を唱えたのは、誰あろう、「大日本帝国」ただ一国ではなかったか。

▼そのとき、君たちは一体なにをしていたのか。よくそれを考えよ。ただ指を加えて黙っていたのではなかったか。そして、同じ黄色人種の中で、ただ一国が抜きん出たことに対する羨望と妬みに心を焼かれ、自らの体たらくは棚上げし、日本が切り開いていった茨の中の一本道をただただ、後から追随してきただけではなかったか。

▼「大日本帝国」が、東方世界で初めて、西欧列強に一矢報い、「西高東低」の千年にわたる時代の潮流を、逆転させた功績は隠蔽し、すべてを侵略の一言で片付けるのは、要するに同じ黄色人種でありながら、自分にできなかったことを、極東の小国がやり遂げたという事実に向き合えない、あさましい劣等感と逆立ちした優越感の現れ以外の何ものでもない。

▼そもそも、満州も、新疆も、チベットも、中国固有の領土などではない。朝貢関係にはあったが、れっきとした独立国であった。だからこそ、満州族に「支那(漢民族地域をこう呼んで、区別しておく)」が「征服」されて大清帝国が成立したのだ。だからこそ、漢民族は辛亥革命で満州族を本国に叩き出したのではないか。つまり、大清帝国とは、満州族による漢民族の植民地支配だったといっていい。その植民地からの独立が、中華民国だ。その中華民国が満州を支配しようなど、それこそが侵略ではないのか。

▼1000年の間に、17回も中国から侵略されたベトナムを見よ。にもかかわらず、君たちは「一度も中国は他国を侵略したことがない」などと、公的な場でよくも言えたものだ。「懲罰」だから、これは侵略ではない、という。そんな話が通ると真面目に君たちは思っているのか。この何千年君たちは、どれだけの侵略を繰り返してきたか、数えてみたらよい。歴史にきちんと向き合っていないのは、君たちのほうではないのか。

▼しかし、昨今、まともな欧米先進国で、誰も日本に軍国主義が復活するなどと思っていない、そう思っていたわたしは甘かったことを気づかされる一件があった。最近、こともあろうに英国の名門新聞フィナンシャル・タイムズの社説で、「安倍政権の軍国主義復活に警鐘を鳴らす」といったような記事が出ていたのだ。さすがに、百回の嘘が効いてきているのかもしれない。由々しい事態だ。

▼そもそも癪に障るのがドイツの対日認識だ。あの国というのは、ときに「日本は先の大戦に対する謝罪を、中国や韓国にちゃんとしていない」と言い出したりする。世論の認識からしてそうなのである。ドイツごときと、日本を同列に比べられたらたまらないのだ。彼らは確信犯だったが、日本はそうではない。

▼ドイツがヒトラーという怪物を生み、第二次大戦の火蓋を切っていったのは、それこそドイツ国民の意思だったと言われても仕方がないのだ。ヒトラーは、ベルサイユ条約に対するドイツ人の怨恨から生まれた産物だ。ドイツ国民は圧倒的な支持で、それも正当な選挙によって選択し、この怪物を独裁者に祭り上げていったのだ。

▼これに対して、日本は、国内世論は、当時のドイツとは違い、まったく統一性は無かった。軍の内部でさえ、対中国強硬論と不戦派に分裂していた。ましてや対米戦に至っては、その現実性には、誰もが自信を持っていなかったのだ。

▼しかもドイツ人がずるいのは、自分たちが礼賛して選択したヒトラーとナチス党に、戦争の責任のすべてを押し付けた。だから、徹底的に謝罪するのだが、それは「わたしたちではない。ヒトラーとナチスがやったのだ。わたしたちは、騙されていた。ユダヤ虐殺など知らなかった。」という理屈である。だからこそ、謝罪できるのである。だから、旧ナチス指導者の墓地を詣でるのを法律で禁じることができるのだ。だから、ハーケンクロイツ(鉤十字)のデザインを公に使うと、罰することができるのだ。彼らは、ヒトラーとナチスがやったことを謝罪しているにすぎない。すべて、ヒトラーとナチスがやったことだといって、事実上ほっかむりをしているのがドイツ人なのだ。ドイツ人は、自分たちがそれを生んだことを、なにも謝罪していないのだ。こういうのを、わたしは「欺瞞」という。こんなドイツから、「日本はきちんと謝罪していない」などと言われる筋合いはない。

▼日中戦争にしろ、太平洋戦争にしろ、もともとは、日清日露戦争で得た大陸での権益、それも正式な条約・協定によって決められた権益がまったく守られなくなってきていたことが原因だ。内戦と軍閥の跳梁で、無主の地と化していた中国では、まともに機能する政府が無かったのである。

▼再三にわたる中国への責務履行の要求をないがしろにされ、日本人殺害など実害が頻発してくるに至って、実力行使に出たのが満州事変だった。あとはずるずると、各国の政府・軍内部にまで巣食っていた国際コミンテルンの謀略に、まんまと「きまじめな」日本人は乗せられて、戦争拡大の泥沼に陥っていったというのが実情だ。(閑話休題「第210~213回 ヴェノナ文書」参照)

▼日本の外交の最大の欠陥は、嘘を百回言い続ける厚顔無恥さが無いことだ。これは日本人の持って生まれた徳性なのだろう。公的な場で、嘘をつくのが苦手なのだ。ならば、相手が嘘を百回言うのであるから、真実を一万回言わなければ、負ける。この日本の外交の、あまりにも「紳士的すぎる」欠陥について、一つの例を挙げて書いてみよう。少々古い話で恐縮だが、先の大戦の惨禍に至る、重要な導火線であった「対華二十一箇条要求」問題である。

▼先の大戦の外交的な破綻のきっかけは、第一次大戦中の「対華二十一箇条要求」問題に遡る。これは、教科書問題でもよく取り上げられる日本外交史の「汚点」だが、一般的には日本の軍国主義による、対中国侵略政策が露骨に始まった典型的な事件だということになっている。真っ赤な嘘である。

▼大きく二つの部分に分かれているこの「要求」は、山東省にドイツが持っていた権益を日本が貰い受けるといったような善後処理の項目と、従来から懸案になっていた満蒙における日本の既得権益の保全のような項目からなっている。

▼もともと第一次大戦など日本は無関係であったから、参戦の意思などなかったが、英国などから再三にわたる要請で参戦した経緯がある。この戦後の権益を巡って、ドイツ権益の譲渡を受けるのは、当然のことだろう。日本兵士が血を流すのに、その見返りすらない等、ありえない。そもそも日本は山東省に領土的野心などなかったのだ。

▼もちろん、中国としては、ドイツとの最初の協定で、第三国に譲渡してはならないとされていたから、日本への譲渡は違法だといって、山東省の奪回を目論むのも正当である。こういった争点は、協議して妥協点を探せば良いだけのはずだった。

▼ましてや、満蒙の権益問題は、そもそも中国の無政府状態化によって、まったく守られていなかったわけで、その遵守を改めて要求したものであって、なにも一段と侵略の意図をあからさまにしたような代物ではない。いわば、当時の国際的な常識からは当たり前の要求だった。だから、英、仏、ロシアでさえ、この日本の要求をごく自然なものとして受け止めていた。いちゃもんをつけてきたのは、中国での権益をねらうドイツと米国だったのである。

▼とくにドイツは、中国を裏からたきつけて、日本権益の追い出しを図っていた。この1914年の段階から、第二次大戦直前まで、ずっとドイツは軍事顧問団を中国に送り続けていたことを見れば一目瞭然である(こんなドイツと第二次大戦で手を組んだ日本の判断にも呆れてモノが言えない。)。南京大虐殺でさえ、上海のドイツ領事館が捏造したのが発端だ。(閑話休題、「第181~182回 南京のまぼろし」参照)・・・だいたい、わたしはドイツという国が嫌いなのだ。余談・・・

▼米国は、満州での鉄道開発をめぐり、もともと日本と共同で行おうという意思をもっていたのを、日本が蹴って以来、きわめて中国の権益に関して反日的になっていたのである。すでに、1904-5年の日露戦争直後、1909年の段階で、頭にきていた米国は「全満洲鉄道の中立化提案」など、日本の満洲における権益を脅かし始めていたのだ。

▼中立化などと公平性を謳っているが、要するに遅れて植民地経営に乗り出してきた米国としては、権益の再分割要求をしているに過ぎない。「俺も入れろ」ということだ。これが後々、さらにあざとくなっていき、中国人が日本に迫害されている、中国人の人権を救え、中国の民主主義を脅かす日本軍国主義を潰せ、となっていく。とんだくわせものとはこのことだ。

▼しょせん、美辞麗句を並べたところで、外交とはこうした国益を巡る狐と狸の化かしあいだ。だから、ほとんど嘘だらけといっていい。嘘をつくのが不得意な日本なら、そのかわり一万回の真実をまくしたてなければ、到底歯が立たない。

▼当時、中国では、袁世凱というとんでもない軍閥が、中華民国初代大総統として君臨していた。孫文ら革命派による長年の運動で勝ち取った民主的政権の座を、まんまと軍閥に横取りされていたのである。孫文はその権力奪還を図り、日本の協力を期待した。そのため、交換条件として孫文が原案をつくったのが、本来の「対華二十一箇条」である。この事実は意外に知られていない。日本人が独自に草案したものではないのだ。

▼第一次世界大戦で英国などからの再三の出兵要請により対独参戦する際に、山東省(青島)のドイツ権益を日本が引き継ぐことを英国事前に了解を得てドイツに宣戦布告していた。もちろん、中国の承認など得ていない。まず最初の失策は、この点だろう。中国と事前すり合わせをして置く必要は十分にあったろうと思われる。

▼これに対して中華民国の大総統となっていた国民党の袁世凱政府が、日本に青島からの撤退を求めたため、日本はその利益(山東省を、ドイツから奪回してみせた)の代償を求めたわけだ。つまり、「わかった。君たちの領土に権益を持っていたドイツをたたき出してやったのだから、山東省をくれないというのなら、ほかになにをくれるんだい?」ということだ。当たり前の話だろう。弱肉強食のあの時代、だれが慈善事業で戦争などするものか。

▼袁世凱は、のらりくらりとして、一流の狸ぶりを発揮。これに業を煮やした日本側が突き出したのが、「対華二十一箇条要求」である。1915年(大正4年)1月18日のことだ。
これは、先述したように、袁世凱と対立して日本に亡命していた孫文が革命支援を得る
ために日本と結んでいた密約『日中盟約』を原案に作成されたものなのだ。孫文、袁世凱ともに、犬猿の仲とはいえ、一応国民党政府として中華民国が成立したわけで、二人ともその指導者の地位にある。当然、この密約は有効であると日本側はみなしたのだ。

▼ここからが袁世凱の狡猾さがさらに発揮されてくる。袁世凱は欧米諸国に連絡して日本に圧力をかけさせるために交渉の引き延ばしを図った。日本は4ヵ月、25回にわたる困難な交渉の末、可能ならこれも認めてもらいたいという「希望項目」を削除し、全部で十六箇条に減らして改めて要求した。つまり、譲歩である。

▼すると、袁世凱の方から、国民の納得を得やすいように「最後通牒」として要求して
ほしいとの要請があったのだ。「最後通牒」とは、「これを受けなければ、宣戦布告する
」という意味である。恫喝である。袁世凱は、反政府勢力を抑え込むには、それが一番通りやすいのだ、とうそぶいたのである。

▼「まじめな」日本は、それですんなり要求が通るなら、ということで、まともに「最後通牒」として袁世凱政府に要求し、受諾された。その結果、袁世凱は、日本から最後通牒が出されたから、やむなく日本の要求を呑んだということを、世間にアピールした。1915(大正4)年5月25日、『日華条約』として調印成立した。内容ではなく、このこと自体が、中国における反日感情を一気に爆発させたのである。まんまとしてやられた、ということだ。

▼たとえば、「旅順・大連租借と満鉄等の租借期限の延長。」だが、これは日露戦争の戦後処理のポーツマス条約で得た日本の満州権益の補完したものだ。99年間の期限延長は香港など当時の他の列強国の租借期限と同じである。

▼次の「満洲・蒙古での日本人の居住営業・土地所有。」これも、中国は同様の特権を既に外蒙でロシアに与えていた。

▼さらに「鉄鉱石輸出・石炭輸入。」中国の漢冶萍公司は八幡製鉄所と鉄鉱石輸出・石炭輸入の契約を結んでいた。同社は鉱山を担保として日本からの借り入れをしており、さらに辛亥革命で革命軍に没収されそうになったため日本から資金調達して没収を免れようとし、その条件として日支合弁の仮契約が結ばれていた。

▼等等、このように内容は欧米列強が持っていた権益と同程度か、むしろ温和なものであり、決して特に新しい権益を要求したものではまったくない。日本が日清戦争・日露戦争で得た満州における権益が、中国における排外運動の増大とアメリカ、ドイツの介入で非常に不安定になっていたので、権益を確固たるものにしようとした事、これが「21ヵ条の要求」の骨子である。

▼特筆すべきことは、このときに日本は領土権も駐兵権も要求していない。つまり、日本はいわば日本の国家的膨張や安全というよりは、日本人が生存していくための権益を確固たらしめようとしただけである。

▼「二十一箇条要求」もそうで、ただ日本人が戦争によって得た外地の権益圏に於いて、土地を借りたり商工業や農業を営む、あるいは旅行をする、生活をする、そういう権益の再確認をし、そして遼東半島の租借権や満鉄の租借期間を99ヵ年に延長する、それが二十一箇条要求である。

▼現代の国際的な常識でこのときの日本が、侵略であったというのは、暴論である。常識が違うのだ。当時、およそ世界を席巻していた西欧列強の植民地侵略の内容と比較したら、よほど温和な内容といっていい。

▼しかも、その権益とは、日清日露戦争による結果である。日清戦争とは、一向に維新革命を起こせず、因循姑息に大中華の元で自国民を虐げ、まったく近代化・独立・強国への道を歩もうとしない朝鮮王朝を、中国(当時は清国)のくびき・呪縛から解き放とうとした戦争である。これは美辞麗句でもなんでもない。朝鮮がしっかりしてくれなければ、日本が危ういという危機感だ。ロシアがどんどん南下してくるという恐怖に日本は怯えきっていたのだ実情だ。

▼ところが、その肝心の朝鮮は、王朝政府が中国の鼻息ばかり伺い、改革を行わない。どころか、有能改革派の人士をことごとく粛清。国民を長年の隷属状態においたまま、教育も施さず、国益をただたかりつくすだけで、失望してしまったのだ。国民に文字さえ教えていなかった。しかも、あろうことか、ロシア軍まで引き入れるという、とんでもない買弁的な政策まで飛び出してきたのだ。

▼それでも、伊藤博文のように、朝鮮支配に反対だった人間がいたころはまだ我慢していたが、伊藤がその朝鮮人に暗殺されると、いわば堪忍袋の緒が切れた。「もう話にならん」ということだ。このままでは、朝鮮はロシアのくびきに敷かれる。中国にはすでに主権が機能しておらず、朝鮮半島にロシア軍が進駐してきたら、日本はほぼ独立性を失うことは火を見るより明らかだった。これを阻止する最後の方法、これが朝鮮合邦である。

▼それも、当初は朝鮮の自主的な維新革命を期待し、改革派人士を日本は官民こぞって支援したが、李氏朝鮮王朝はこれをことごとく弾圧した。朝鮮は、自ら独立生存の努力を放棄したのだ。自分でできないなら、日本がするしかない。当時、帝国主義が時代の常識であった頃、日本の選択は常識の中でももっとも穏健な、しかし絶対に譲れない一線であったろう。

▼言っておくが、欧米列強のような植民地ではない。合邦である。日本の常識には、植民地という言葉ない。帝国議会で、桂首相が「いわば、植民地でありますから」と言った途端に、議会が紛糾。帝国が「アジアに植民地を持つという意識などとんでもない」といって、大もめにもめたことがあるが、あくまで朝鮮は帝国の一部であって、植民地ではない、という認識が普通だったのだ。

▼植民地というのは、インフラに特段意を注がない。その住民たちには、本国の憲法など適用されない、純然たる隷属民でしかない。当然教育など行わない。日本が朝鮮でやったことは、まったくその逆である。日本と同じことをしたのだ。どころか、たとえば京城帝国大学などは、東京帝国大学の予算の十倍をつぎ込んで英才を育てることに腐心していた。台湾でも同じだ。

▼しかも、朝鮮合邦は、日本が言い出したのではない。朝鮮側の提案である。ことの順番を間違っては困る。このように、対華二十一箇条要求というものは、そもそも大陸に日本が権益を得るようになっていった経緯と、時代の趨勢の中で、きわめて常識的な「帝国主義」の枠内で行われた、ごく当然の政策発動であった。

▼問題は、このときの外交手腕の優劣である。袁世凱は一枚上手だったのだ。袁世凱は合意した内容を著しく歪曲誇張して内外に宣伝した。

・南満洲の警察と行政権を日本に譲渡。
・中国陸海軍は必ず日本人を教官とする。
・中国の学校では必ず日本語を教授すべし。
・中国に内乱がある場合には日本に武力援助を求める。
・中国の石油特権を譲与する。
・中国全部を開放し日本人に自由に営業させる。

以上、日華条約で合意した内容とはまったく関係ない捏造である。そもそも、「21箇条要求」などという呼称自体が、袁世凱政権が誇大宣伝のため創作したものである。日本側は使っていない。しかし、世の中の常識は、上記の「捏造された要求」が、対華二十一箇条要求だとほんとうに信じている人が多すぎる。

▼しかも、袁世凱は、「日本は非道にも、いきなり最後通牒として、この二十一箇条を要求してきた」と国際世界に強訴したのである。最後通牒の形にしてくれと要請してきたのは、中華民国側である。これで、日本は不当な要求を、暴力をちらつかせながら、第一次世界大戦のどさくさにまぎれて中国にしぶしぶ受諾させたという印象を世界中に植えつけることに、袁世凱はまんまと成功した。つまり、日本をハメたのである。袁世凱の要請で、最後通牒という形で要求し、しかもさらに懇請されて、ごていねいにも軍部隊まで動員したのである。いい面の皮とはこのことだ。

▼この袁世凱のプロパガンダには中国にいるアメリカの宣教師や領事館も加担していた。当時アメリカは、満洲の権益に食い込もうと、執拗に迫っていたわけで、「ロシアには許すことを日本には許さない」など、対日政策が露骨に反転していったのはこのときである。

▼さらに悪質なことに、袁世凱政府は日華条約調印直後に、「日本人に土地を貸した者は死刑」という条例を交付した。これは国際条約の調印と同時に、別の法令を制定して条約の履行を妨害するという、いわば背信行為である。

▼日本は、現在と同じように「相手を刺激しないこと」ばかりに心を砕き、不拡大方針を
取り続け、そのために侮られて日本居留民などが様々な被害に遭い、虐殺される事件がしばしば起こった。それが度重なっていくうちに、次にまた中国に「堪忍袋の緒が切れた」のが満州事変ということになる。日本の外交というのは、いい子になってしまい、我慢して、けっきょく最後には「やむにやまれぬ」武力介入という最悪の選択に陥るパターンが多すぎる。最初から、敵の嘘百に対して、事実一万回をまくしたてる努力をしないのだ。

▼このときは、袁世凱の出たら目な宣伝活動を、条約成立までの経緯をことごとく暴露することによって、国際社会に中華民国政府の非道を徹底的にアピールすべきだったのだ。ところが、当時の外務省は、「事を荒立てるのは得策ではない」として、だんまりを決め込む。そして、国際世論の対日非難の責任をとって、外務大臣が辞職する。役人は辞職しても、それだけのことだ。しかし、日本は、悪役と化していく歴史だけが残った。この繰り返しが、日本の外交なのである。

(後編に続く)
増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄


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