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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第357回・一発必中

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【閑話休題】第357回・一発必中

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2015-04-17 16:58:00]

【閑話休題】第357回・一発必中

▼後味の悪い話を書く。狙撃手、スナイパーの話だ。軍人なわけだが、サイバー部隊と同じく、軍隊の中ではとりわけ異色な存在だ。特殊技能者といってよい。たった一人のスナイパーが、敵部隊を延々と足止めすることも可能だ。

▼確認されている戦闘中の狙撃の最長射程距離記録がある。イギリス陸軍のクレイグ・ハリソン近衛騎兵軍曹が達成したものである。

▼2009年11月、アフガニスタンのヘルマンド州ムサ・カラ県でハリソン軍曹はL115A3長距離ライフルを使ってタリバンの機関銃手を射殺したのだ。2.475kmの距離から二名続けて射殺した。約2.5キロである。とても人間業とは思えない。一人ではない、連続で二人倒したのである。

▼弾道学ソフトウェアによると、ドップラー抵抗係数の連続データを用いて、その弾道を割り出した。それによると、射撃は滞空時間約6.0秒で2,475m飛んで、運動エネルギーの93%を失い、初速毎秒936mから毎秒255mに減速。当初の射線から121.39mもしくは2.8°落下して、標的に当たるとしている。

▼かなりの長距離と滞空時間であるが故に、毎秒2.7mのわずかな横風でさえも、その射撃を標的から9.2mも偏流させ、その補正が必要となる。

▼ハリソン近衛騎兵軍曹によれば、当時現場の環境条件は長距離狙撃にとっては完璧で、無風、好天、良好な視程であったと報告書で述べている。BBCのインタビューで、ハリソンは観測手とペアで標的に最初に着弾するまでに約9発撃たねばならなかったと述べている。つまり、一発必中ではなかったわけだが、それにしても凄い。

▼もちろんスナイパーにも、人殺しだけが目的とは限らない。たとえば、米国オハイオ州コロンパス警察のSWATの狙撃手、マイク・プラムの一発は有名である。自殺しようとしていた男が手に持っていた拳銃を狙撃。彼をかすり傷つけることもなく、自殺を防ぐことに成功している。

▼しかし、やはりなんといっても歴史に残る「記録」としては、圧倒的に軍人にその機会が多いことは間違いない。

▼日本の狙撃による暗殺の最初のものは、なんと戦国時代に遡る。永禄9年1566年、2月5日(現在の2月24日)、謀将・宇喜多直家の命をうけた、遠藤秀清・俊通兄弟が、戦国大名・三村家親を、美作国久米郡興善寺の陣中で、火縄銃による狙撃で暗殺している。距離がはっきりしないが、数十mであろうと推察される。同じく戦国では、元亀元年1570年5月19日(現在の6月22日)に、織田信長が近江の千草越で狙撃されている。六角義賢の依頼を受けたといわれる杉谷善住坊が、20数mの距離から二連発火縄銃で狙撃。これは失敗に終わっている。ちなみに、信長は天正9年1581年にも、伊賀者に狙撃されており、これも失敗している。

▼日本人が対外戦の狙撃で成功したものとしてよく知られているのが、秀吉の時代、慶長3年1581年11月18日(現在の12月16日)、慶長の役における、露梁海戦において、朝鮮水軍の主将・李舜臣が、島津兵の狙撃で戦死している例であろう。

▼余談ながら、このときの時代背景だが、韓国では日本水軍を破った英雄として、その死を悼むということらしいが、一応歴史の事実を確認しておこう。このとき、すでに豊臣秀吉は死んでおり、大阪からは朝鮮出兵に赴いていた日本軍全軍に退却命令が出ていた。

▼戦地にいた小西行長は、明との間に講和を成立させることに成功、海路を撤退しようとした。ところが、明・朝鮮水軍は、古今島から松島沖に進出し、海上封鎖を実施。小西らの退路を阻むという挙に出た。講和した後の、この明・朝鮮水軍の行動に日本側は抗議を行ったところ、明の水軍は応じて撤収。ところが、朝鮮水軍の李舜臣はこれを拒絶し、講和条約を破ってしまったのだ。

▼進退窮まった小西隊は、順天城で足止めを余儀なくされた。この小西隊の窮地を知った薩摩の島津義弘ら日本側の諸将は、急遽水軍を編成して救援。

▼この日本水軍の動きを察知した李舜臣の朝鮮水軍は、順天の封鎖を解いて東進し、露梁海峡で迎撃。明の水軍も参加した。日本水軍と明・朝鮮連合水軍の海戦では、双方に被害が甚大だったようだが、ダメージが大きかったのは、明・朝鮮水軍の側で、主な将軍クラスが軒並み戦死している。李舜臣も、島津兵の狙撃で死亡したのである。

▼連合水軍は、高級将校以上の戦死が過多となり、統制を欠き、ついに作戦行動の継続が不可能となった。このため、島津隊は、小西隊を退避させ、殿軍をつとめて無事に撤退完了。予定通り、救援任務は完遂した。

▼要するに、李舜臣は、日本軍総退却の講和条約を結んでいたにもかかわらず、これを破り、あろうことか島津隊の来襲を引き寄せてしまい、おまけに迎撃に出て味方は大損害を被り、自身は返り討ちにあって死んだ、ということになる。おそまつな判断と采配、そして結果というしかない。講和条約を遵守していれば、あたら多数の両軍の無駄な死者など出さず、日本軍を朝鮮半島から退去させることができただろうに。そもそも、無益にして無謀な秀吉の朝鮮出兵である。それでなくとも、日本の遠征軍はまったく厭戦気分に陥っていたのだ。さっさと引き上げたくて仕方がなかったというのが実情だ。正確に「歴史に学ばなければ、未来はない」だろう。

▼さて、余計な蛇足に道草を食ったが、この李舜臣の狙撃も、海戦とはいえ、接近戦であったから、数十mから、100m程度の射程距離であったと推測される。

▼欧州では、1805年10月21日、ナポレオン戦争におけるトラファルガー海戦で、英国艦隊提督ホレーショ・ネルソンが、フランス艦の狙撃手によりマスト上から撃たれ、戦死している。これも、数十mの射程距離である。英国艦隊は、圧勝したものの、ネルソンは命を落とした。

▼現代に入ってから、この狙撃手の戦闘効果は、著しく増大した。最も多大な戦果を挙げた狙撃手は、フィンランド軍のシモ・ヘイヘ少尉である。「白い死神」と呼ばれ恐れられた。ソ連軍との交戦で、100日間で505名を射殺。たった32名で、4000名のソ連軍の侵攻を食い止めた(コラー河の奇跡)は有名である。1939年から1940年にかけて起こった、フィンランドとソ連赤軍との「冬戦争」である。ヘイヘたちは、終戦まで、拠点防衛を守り抜くことに成功している。

▼このヘイヘの記録は、公式確認戦果としては、世界最多記録である。この505名射殺の中には、狙撃銃以外の銃器による殺害数は含まれていない。ヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、コラー河では実際サブマシンガンも使用している。

▼ソ連赤軍は、重大な脅威であるヘイヘを排除するため、砲撃集中や、カウンター・スナイパーの投入など対策を講じたようだ。1940年3月6日の戦闘で、ヘイヘはついに顎を打ち抜かれる重傷を負って、後送された。一命を取りとめたが、顔の左半分をほぼ失っている。後、猟師として、また猟犬のブリーダー(繁殖家)として余生を送った。2002年、かつて自分が守ったロシアとの国境線近くの町で、96歳で逝去。

▼大変有名な狙撃手同士の死闘ということでは、第二次大戦中、スターリングラード攻防戦において、ドイツ軍狙撃兵学校教官のエルウィン・ケー二ヒ少佐と、ソ連軍のヴァシリー・ザイツェフ大尉の戦いだろう。映画にもなったから(映画「スターリングラード」主演ジュード・ロウ、共演エド・ハリス)ご存知の人も多いだろうが、どうやら、これは当時のソ連が戦意高揚のために捏造したまったくのでたらめのようだ。当時のドイツ軍には、エルウィン・ケーニヒなる軍人は存在しない。そもそもドイツ軍には、狙撃兵学校はなかった。

▼むしろ、ソ連の狙撃手として実在したもので特筆すべきなのは、女性スナイパーであろう。リュドミラ・パブリチェンコ(最終階級は少佐)だ。史上最高の女性狙撃手である。確認戦果309名という傑出した記録を残している。1976年58歳で他界している。

(リュドミラ・パヴリチェンコ)

▼パヴリチェンコは枯草模様の擬装を装備して狙撃陣地に潜み、敵を一旦やり過ごしてからその後背や側面を衝いて700~800mの長距離から狙撃を行うという戦術を用いて多大な戦果を挙げたという。

▼ソ連軍は、非常に多くの女性スナイパーを生んだ。第二次大戦中、合計2000名に及ぶ女性スナイパーを戦地に送り込んだが、パヴリチェンコのように終戦まで生きながらえたものは、500人に過ぎない。

▼たとえば、ローザ・シャーニナは、生き残れないほうの一人だった。最終階級は上級軍曹である。農家の生まれだが、14歳(!)のときに、親の反対を押し切って、家を出て、大学に学んだ。生活のため、昼は幼稚園の保母をし、夜間には大学に行くという生活を送っていたが、兄( 19歳)が独ソ戦で戦死した知らせをきいて、赤軍に志願。女性狙撃兵学校で訓練を受け、戦地に送られ、確認戦果は54名射殺である。

(ローザ・シャーニナ)

▼すでに、戦争は末期に突入していたので、確認記録は少ない。1945年1月27日、東プロイセンに侵攻した折に、農村におけるドイツ軍との遭遇戦で、破弾片が直撃。彼女の胸が裂けた。救護が行われたが、翌日戦死している。20歳であった。

▼ちなみに、ドイツ軍側の狙撃手では、確認戦果345名という最高記録保持者マティアス・ヘッツェナウアー(オーストリア)や、257名というヨーゼフ・アラーベルガーが第二位として有名だ。

▼いまや、伝説となっているスナイパーといえば、米海兵隊一等軍曹カルロス・ハスコックだろう。アーカンソー州リトルロック出身のハスコックは、ベトナム戦争に参加した。

▼一躍ハスコックの名を有名にしたのは、第55高地に配属されたときのことだ。北ベトナム軍は、フランス人将校(フランスのベトナム放棄後も残留して、北ベトナム軍の軍事顧問となったうちの一人)を狙撃、射殺している。このフランス人将校は、撃墜された米軍パイロットを拷問にかけることで知られていた人物だ。

▼その後、狙撃手として着々と記録を伸ばしていった。愛用の迷彩色帽子に、白い羽を留めており、「白い羽の戦士」と呼ばれたが、白い羽は、米国では一般にチキン(臆病者)の比喩であり、ハスコックによれば、スナイパーの任務に必要な性質の一つである、臆病なまでの慎重さを皮肉って、自ら目印にしたらしい。しかし、ベトナム軍にとっては、「白い羽の戦士」は紛れもなく、恐怖の象徴となっていった。ハスコックの狙撃の概念は、まさにスナイパーの代名詞として残る彼の言葉、「One shot, One kill(一撃必殺)」であった。

▼そのハスコックが、一度だけ、羽を帽子からはずしたことがある。北ベトナム軍将軍一人を狙撃したときのことだ。彼は敵の厳重な警戒下にあるジャングルを、匍匐前進(ほふくぜんしん)だけで3日間繰り返し、1km以上の距離を移動。635mの距離に接近して、任務を果たしている。匍匐前進の繰り返しと虫刺されで、全身水ぶくれとなった。途中、すべての屎尿(しにょう)は、軍服のまま垂れ流しをした。あらゆる痕跡を残さないということが、スナイパーの鉄則だからだ。

▼ハスコックの狙撃を恐れた北ベトナム軍は、彼に3万米ドルという破格の賞金をかけて狙ったが、ハスコックの狙撃を止めることはできなかった。公式記録では、93名のベトナム兵を射殺したことになっているが、ベトナム軍制圧地域に潜入してのゲリラ戦に関しては、未確認戦果が多すぎ、一般に推定では300名以上は射殺していると考えられている。

▼北ベトナム軍は、ハスコックに対抗すべく、彼のいる第55高地に12名もの狙撃手を送り込んだ。その中の一人、北ベトナム軍の謀略放送では「コブラ」と呼ばれていた狙撃手との戦闘は、「Cat & Mouse(猫とねずみ)」と呼ばれ、その後のフィクションや映画の世界に多くの題材を提供することになる。映画「山猫は眠らない(トム・ベレンジャー主演)」にも使われた「スコープ越しの狙撃」と呼ばれる戦闘がとくに知られている。

▼ある任務で、ハスコックと観測手のジョン・バーク伍長が、ベトナム軍将校を、728mの距離から仕留めた帰途、逆に敵のスナイパーに密かに補足されていることに気づいた。455m先のジャングルの茂みの中に光る、敵スナイパーのスコープ・レンズの反射光に向けて発射されたハスコックの銃弾は、そのレンズを貫通し、「コブラ」の眼球に命中していた。バークは、「コブラ」の死体を確認して賞賛したが、ハスコックはこう言ったといわれる。

「レンズに目を当てていたということは、彼もわたしを捉えていたということだ。わたしが先に撃ったのは、運が良かったというだけだ。」

▼ハスコックの敵兵射殺数記録としては、先述の第二次大戦当時の名手たちには及ばない。しかし、とんでもない記録を生んでいる。1967年、谷の向こうに陣取るベトナム兵を、単発射撃で仕留めており、その距離約2300mという記録を打ちたてている。これは、その後、各種兵器が飛躍的に進歩した2002年、アフガニスタンにおけるカナダ軍のロバート・ファーロング兵長によって、破られる。このときは、2430mの距離から、タリバン兵の狙撃に成功したのだが、それまで35年間破られることのなかった記録である。(さらにその後は、冒頭で紹介したハリソン英近衛軍曹の2475mの狙撃が最長記録となっている。)

▼1969年9月16日、ケサン郊外で、彼が乗っていた水陸両用車が対戦車地雷で爆発炎上。重傷を負う。ハスコックは意識がもうろうとする中で、炎上する同僚から引きずり出し、数名を救ったが、その後意識不明となり、13箇所の皮膚移植手術に耐え、一命をとりとめた。しかし、後遺症は大きく、バージニア州の狙撃兵学校の教官の任についた。

▼狙撃手にしては、ハスコックは幸福な晩年を送っている。確かに、多発性硬化症の発作には悩まされたものの、総じて平穏な生活だった。シャークフィッシング(サメ狩り)に趣味を見出し、余生を送り、1999年56歳で生涯を終えている。

▼スナイパーは、その多くが、「殺しを楽しんだことは一度もない」と言う。「それは、任務だった」とも言っている。「わたしがやらなければ、やられていた」とも述べている。おそらくそうなのだろう。

▼しかし、乱戦の中で兵士たちが殺し合うのと違い、スナイパーは、究極の冷静さ(冷酷さといってもいい)を維持して、一瞬に勝負をかけることを延々と強いられる。どういうわけか、その最期は、ハスコックのような平穏なものにはならないことも多い。仮に、戦場で命を落とさなかったとしても、なぜか、日常に戻っても横死してしまうことがある。

▼2014年公開の映画「アメリカン・スナイパー」のモデルである、クリス・カイル米海軍兵曹長がそうだ。

▼クリス・カイルは、2003年にイラク戦争が始まると、2009年除隊するまで、4回にわたりイラクへ派遣された。激戦地を転戦し、イラク軍およびアルカイダ系武装勢力の戦闘員を、公式戦果では160名射殺。非公式記録では、255名である。敵側からは、「悪魔」と評され、懸賞金がかけられた。

▼最初に狙撃した相手は、女性であった。海兵隊の前進経路上に、手榴弾を仕掛けていたイラク人女性(子供をつれていた)である。クリスによれば、それが最初で最期の女性の標的だった。

▼激戦となったファルージャの戦いでは、地上を掃討する海兵隊を建物の屋上から狙撃で援護するという「退屈な」任務についたが、彼の所属していた特殊部隊と比べて、あまりにも稚拙な屋内突入や、そのたびに武装勢力の反撃で死傷していく海兵隊員たちの姿を見ているうちに我慢できなくなり、命令を無視して地上で海兵隊とともに掃討作戦に参加している。

▼クリスは、多くの友人をイラク戦で失っており、目の前でそれを目撃していた。どの軍隊の兵士も同じだろうが、クリスも自分が殺傷した相手を「悪人」呼ばわりし、撃ったことに一切罪悪感は無いとしている。むしろ、もっと敵を倒せれば、もっとたくさんの味方の命が救えたとも言っている。射殺した敵の中には、少年兵も多く含まれていたが、容赦なく撃ったという。

▼本人は戦地におけるPTSD(死に直面するような恐怖から生じるトラウマによる後遺症)に悩まされており、帰還兵士たちのPTSD問題の解決にも、除隊後力を尽くした。民間軍事会社をつくったが、余暇のほとんどは、そうした慈善活動に費やされた。

▼実際、彼の生き残った戦友にも、PTSDで自殺したものがいる。そしてクリス自身もその犠牲となっていった。

▼2013年2月2日、PTSDを患う元海兵隊員エディ・レイ・ルースの母親からの頼みで、テキサス州の射撃場においてルースの射撃訓練を行わせていたときのことだ。同じく退役軍人のチャド・リトルフィールドを伴っていた。ところが、ルースは突然、クリス・カイルとリトルフィールドに向け発砲。二人とも即死した。

▼任務とはいえ、あまりにも精神的な負荷が大きすぎる狙撃手たちの余生は、抗い切れない運命にどこか引きずられているのかもしれない。戦争が終わっても、彼らには終わっていないのだ。ワーテルローの戦いで、ナポレオンを破ったウェリントンが、惨勝の後、むごたらしい戦場で吐き捨てるように残していった有名な言葉が、ここでも再び蘇る。

「戦争に勝者も敗者も無い。みんな負けるんだ。」

増田経済研究所 日刊チャート新聞編集長
松川行雄



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