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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第52回・理論と実践

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【閑話休題】第52回・理論と実践

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-05-17 17:30:00]

【閑話休題】第52回・理論と実践


▼理論も実践も、どちらも大事だ。どちらかが欠けても物事は成就しない。理論倒れも困るし、勘に頼って行動するのも問題だ。ただ得てして、前者の弊害のほうが世の中多いような気がする。長い経験によって裏打ちされた勘は、いかに精度の高い机上の理論より的を得ていることがある。それは、世の中が千変万化しているために、流動的な判断が要求されることが普通だからだろう。アメリカの海軍兵学校で、長年教えられている戦史の中から、日本人に馴染み深い一例を挙げてみよう。

▼日露戦争のとき、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させた。この驚異的な大勝利をもたらした戦術が、秋山真之(あきやまさねゆき)参謀の立案した「丁字戦法」だったということは、よく知られている。ただ、この戦法はおよそ二分間に百八十度の大回頭(大きく旋回すること:別名トーゴーターン)をするため、敵の主砲によって蜂の巣になる。半ば自殺行為とも考えられる作戦であった。

▼しかし、従来の艦隊決戦の常識だったすれ違いざまの砲撃戦では、命中精度が悪ければ、結局取り逃がしてしまう。満州で死闘を繰り広げている陸軍への補給路を確保し続けるためには、なんとしてでも全滅せよという大本営の至上命令を達成することはできない。苦肉の策が、敵前で大回頭をしてバルチック艦隊の進路を封鎖するという、この丁字戦法であった。いったん日本側が横一線に転回し終わったら、こちらは片側全門砲撃ができる。一方、ロシア側は縦列で来ているために、砲撃可能な砲門は限られる。結果、日本側が十字砲火を浴びせることができるため、圧倒的に日本有利の態勢になるというわけだ。

▼実は、歴史的なこの大勝利も、戦いの序盤で東郷平八郎(とうごうへいはちろう)司令長官と秋山参謀が、大変なミスを犯していた。連合艦隊がバルチック艦隊を取り逃がし、日露戦争の帰趨(きすう)も歴史とはまったく違うことになっていた可能性が高い。それほどの重大なミスだった。もしそうなっていたら、極端なことをいえば、大陸にいる陸軍への海上兵站路が、生き残ったバルチック艦隊によって脅かされただろう。当時、陸軍は予備兵もなく、弾薬補給もほぼ枯渇していた。日増しに数を増大させていたロシア陸軍の圧迫に、最終的には壊滅させられる可能性が高かった。

▼旗艦三笠は序盤戦、敵前で大回頭をし終わるまでに十六砲弾を浴びていたが、捨て身の丁字戦法の威力が発揮されるのはそこからであった。横一線に並んだ日本艦隊に頭を抑えられたため、ロシア側はこれを回避しようと転回し始め、それまでとは立場が逆になった。今度は日本海軍の十字砲火が始まったのだ。

▼三笠の放った第四弾は、敵の旗艦スワロフの司令塔を直撃し、そこにいた半数の人間が吹き飛ばされた。三十分後にバルチック艦隊は、被害甚大に陥っていた。日本海海戦の勝敗自体は、この段階ですでについていたと言ってもよい。しかし、このとき日本にとって、ただの勝利はまったく無意味だった。敵を全滅させなければならないという、きわめて“無理な”使命があったのだ。

▼東郷・秋山コンビの判断ミスというのは、ロシアの旗艦スワロフが、日本側の十字砲火を浴びて黒煙を吐きながら左旋回を始めた局面だった。ロシアの後続艦は、これに当然従った。これを見た東郷司令長官は、敵が北に逃走し、ウラジオストックへ一気に逃げ込むつもりだと判断。この敵の頭を抑えて進路をはばむため、左八点回頭(左方向90度に針路を変えること)を命じ、旗艦三笠は『我二続ケ』の信号旗を掲げた。日本の後続艦は、単縦陣(たんじゅうじん:艦隊の各艦が縦一列に並ぶ陣形)でこれに従う。

▼ところが、異変に気づいたのは、ずっと後方に位置していた第二戦隊の上村彦之丞(かみむらひこのじょう)司令だった。バルチック艦隊の後続戦隊が、途中からスワロフの旋回航路からはずれ、まったく反対の右に旋回を始めたのを不審に思ったのだ。このままいくと、バルチック艦隊は、先頭の旗艦スワロフと一部艦船は、その他のほぼ全艦船と、それぞれ左右に分かれていくことになる。

▼佐藤鉄太郎参謀は、「スワロフには、我二続ケの信号旗が上がっていません。操舵不能に陥っているのです」と見破った。つまり、操舵不能に陥った旗艦を見捨てて、残りのバルチック艦隊は反対に航路を切り、迂回しながら一目散にウラジオストックに逃げ込もうとしていたのだ。スワロフは、舵が効かずにただ迷走しているだけだったのである。

▼上村は、究極の判断に迫られたわけだ。東郷司令長官の命令に従って、左八点回頭するか、それとも、命令違反をして右に旋回しつつあるバルチック艦隊のほぼ全数を追撃するか。つまり、間違ったと“推測される”命令に従うか、この戦争の目的である「敵の全滅」をあくまで試みるか。真実はどこにあるのか、現場では非常に判断しがたい。東郷が間違ったという保証はどこにあるだろうか。そこには、東郷の深謀遠慮があるのかもしれないではないか。よしんば、命令が間違っていたとして、自分が右に旋回していく敵を追撃した場合、本当に撃滅できるのか。

▼結局、ロシア側によって我々が左右に翻弄され、虻蜂(あぶはち)取らずで、戦果を挙げることができなかったらどうする。そもそも、命令無視で追撃戦に入るといっても、巡洋艦主体の上村艦隊が、戦艦主体のバルチック艦隊に突撃するのだから、世界の海戦史上、前代未聞の暴挙である。至近距離での砲撃戦だから、戦艦相手では破滅的な打撃を被る可能性も高い。しかし、巡洋艦だからこそ高速性能を生かして、追撃が可能なはずだ。

▼おそらく、さまざまな考えが一瞬にして上村司令の頭の中を駆け巡ったことだろう。私なら死にたくなるような瞬間だ。上村司令は、ややあって佐藤参謀に、「間違いないか」ともう一度聞いたという。「間違いありません。スワロフは絶対に操舵不能です」。この佐藤参謀の一言も、非常に重い。つまり、東郷長官の判断は間違っている、と言い切ったのだ。

▼航行できなくなった敵の旗艦は放っておき、逃走を図ろうとする残存艦船を襲うべきだ、と佐藤参謀は言ったに等しい。上村司令が命令無視を決めた瞬間だった。すでに、スワロフと先頭艦船を抑えようと、東郷麾下(きか:采配の下)の第一戦隊は左八点回頭をしてしまった。上村司令はこれを無視、後続するすべての艦船に対し、「我に続け」の信号旗を掲げ、右旋回を命じた。スワロフを置き去りにして逃走する残存バルチック艦隊の追撃戦に走ったのである。

▼結果、これは大正解だった。火災を起こし、速力も落ちたバルチック艦隊のほとんどを、上村艦隊は見事に捕捉した。ロシア軍は、大損害を受けながら、上村艦隊との戦闘を回避すべく、北に反転してまたも逃走しようとした。上村艦隊はすかさずこれを追撃。形としては、南方から敵を圧迫していく格好となる。一方、スワロフその他を壊滅させた東郷麾下第一戦隊は、この事態に対応するべく、逆に北方から登場してくることになった。結果、日本側はバルチック艦隊を、期せずして南北両方から包囲網の中に追い込んでいくことになった。バルチック艦隊は全滅した。

▼この上村司令の独断専行は、まかり間違えば軍法会議どころではなく、切腹ものであったろう。彼の覚悟のいった選択と判断、佐藤参謀の洞察と信念が、日本海海戦を歴史上に残る奇蹟の殲滅(せんめつ)戦にしたといっても過言ではない。天才的な秋山理論と上村以下の実践力が、見事に補いあった戦ぶりである。

▼実際、捕虜となったロシア将校たちが、口々にこのときの日本海軍の操艦は、まるで神が乗り移ったようだった、と言ったのもうなずける。アメリカで最初にこの戦例が講義されたとき、兵学校の生徒たちは、一斉に「ブラヴォー」と歓呼したと言われる。スタッフとラインがそれぞれ知力を尽くして成し遂げた偉業に、心から感動したのだろう。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄



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