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増田経済研究所『閑話休題』バックナンバー

【閑話休題】第85回・傭兵たちの挽歌

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【閑話休題】第85回・傭兵たちの挽歌

【日刊チャート新聞記事紹介】

[記事配信時刻:2013-07-03 18:00:00]

【閑話休題】第85回・傭兵たちの挽歌


▼「ディエン・ビエン・フーの陥落」といっても、若い人には分からないだろう。ベトナム戦争にアメリカが介入する前のことだ。第二次大戦が終わり、日本軍はインドシナ半島で武装解除され、復員の途についた。その後、独立運動が起こり、北部ではホーチミンによる北ベトナムが独立を宣言した。ベトナム全土を管理下に置いていたフランスはこれを認めず、武力鎮圧に出て戦闘状態となった。

▼1954年5月7日、ベトナム中部、難攻不落と謳われたディエン・ビエン・フーが陥落。最終的にフランス軍は降伏した。戦後、世界中で巻き起こっていった植民地独立戦争のもっとも象徴的な事件である。

▼ディエンビエンフーを巡る攻防戦は、旧日本軍将兵と旧ナチス・ドイツ残党との熾烈な戦いだったが、この奇妙な出来事は意外に知られていない。かつて同盟国だった将兵が、あらぬところで全面戦争を演じていたのだ。シミュレーション・ゲームでもなければ、まずはお目にかかれないカード(対戦)といってもいい。勝利したのは旧日本軍将兵であった。

▼北ベトナムは、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は第二次大戦中、日本軍に追われたフランス軍の下級将校であった。もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で教官は元日本軍の将校だった。このような残留日本兵は、「新ベトナム人」とよばれた。フエ駐留の第34独立混成旅団参謀、茨城出身の井川省少佐はその先駆けだったといっていい。

▼井川少佐はベトナム名を「レ・チ・ゴ」といい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを教えた。が、不幸にしてこの直後、防戦指導をするため要衝プラークに数十名のベトナム兵を率いてジープで向かう途中、峠で仏軍の待ち伏せに遭った。人為的な倒木により道路が閉鎖されていたので、拳銃を持ってジープを降りた。同行した少年兵ファン・タイン(後、北ベトナム軍陸軍少将)の目撃談によると、井川は危険を察知し、後続のベトナム兵に退避命令を出したところ、前面から仏軍の機銃掃射を浴びて戦死したという。享年33歳。

▼また、井川参謀の部下である中原光信少尉は、ベトナム名を「グエン・ミン・ゴック」といい、第二大隊教官として北ベトナム軍に協力した。熊本出身の中村は井川戦死後、数々の北ベトナム軍の危機を救う作戦を立案・指導。総司令官ヴォー・ゲン・ザップ将軍直属の軍事参議官として、遺憾なく才能を発揮した。

▼ほかにも日本の敗戦後、同じようにインドシナに残留した日本兵は766人にのぼる。また、武器は中華人民共和国から提供されたが、多くは日本軍のもので38式小銃などが多かった。中国軍から供与された武器は自動小銃だった。彼らは北ベトナム軍の軍事顧問団として、ディエン・ビエン・フーで活躍することになる。

▼一方フランス軍は、この急激に独立運動が進むベトナムに、ただちに大規模な正規軍を派遣するだけの余裕がなかった。そこで、ドゴール大統領はモロッコやアルジェリアの植民地軍だけでなく、フランス外人部隊を中核としてベトナムに派兵する。武器弾薬は、第二次大戦にて多量に余ったものを米軍より給与される。

▼このフランス外人部隊の指揮官等はフランス人が原則だが、兵隊や下士官は外国人で構成されていた。れっきとしたフランス正規軍なのだが、国籍は千差万別。なにしろ、過去の経歴を問わないため、犯罪者などが紛れ込むには最適の隠れ蓑(みの)となった。登録名もたいていは偽名である。それで良い。住民票も身分証明書も、何も必要がない(逆にいつ辞めるのも自由だが)。それだけに、歴史的にもその強さは折り紙つきだ。ある意味、フランス軍の中でもっとも精強だったかもしれない。

▼それだけに、過酷な戦場に動員されるのが常だ。歴史的にも、彼らを相手にした敵国軍から、「あいつらは人間じゃない」と言われることが多かった。人生に絶望し、生きる欲求もない代わりに、死ぬことをなんとも思ってない外人兵も多い。飛び交う弾丸の中で身を隠すこともなく、平然と敵陣に向かって銃を構えて歩いていくような連中がひしめいていた。そもそも、死にたいと思っているような者さえ少なくない。ちなみに、古いトーキー映画の名作『モロッコ』(ゲーリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒ主演)は、このフランス外人部隊を題材にしている。

▼このときも、前科者や当時ナチスの戦犯追及が厳しく、ドイツ本国にいられなくなったような、多数の「ナチス親衛隊」「突撃隊(SS)」「ゲシュタポ(国家秘密警察)」「戦争犯罪者」「絶滅収容所の職員」が応募した。フランス外人部隊は「前歴」を一切問わない。いったん入隊すると政府などの公的機関による追及から、合法的に逃れることができる。しかも、入隊すると「フランス国籍」が優先的に取れる。この旧日独将兵が、ベトナム人を率いて、ディエン・ビエン・フーで激突した。フランス軍の塹壕(ざんごう)からは、あちこちで「ナチス党歌」(ホルストベッセの歌)が高らかに聞こえていたそうだ。

▼攻囲戦では、攻撃側は最低でも敵側の三倍の兵力を動員しなければならないという原則がある。56日間にわたる激闘だった。本陣地とその周囲にある分散陣地(計8箇所)は塹壕によって結ばれていたが、対野戦陣地の性格が強かった。北ベトナム軍は、これらを各個に撃滅し、2カ月後には本陣地に迫った。

▼しかし、結局ディエンビエンフー本陣地攻囲戦の帰趨(きすう)を決定したのは、重砲だった。盆地で全周陣地の形状をとった要塞を一望の下にのぞめる山上に重砲を引き上げた。80門の砲と1万5000発の砲弾を、人海戦術で一カ月のうちに山上へ輸送。設置するや、一斉に十字砲火を浴びせたのだ。この作戦の立案指揮をとったのは、旧日本軍将兵の軍事顧問団である。旧日本軍の山砲も縦横に活躍した。雨季、腰までつかる塹壕の中で、ナチス残党は敗れた。

▼2万人強のフランス外人部隊のうち、2200人が戦死した。あとはことごとく降伏。8万人を動員した北ベトナム軍のうち、8000人が戦死。両軍合わせて1万人以上の戦死者を出した。負傷兵は2万人に及ぶ、戦後の独立戦争では最大の決戦とも言われるディエン・ビエン・フーの戦いは、こうして旧日本軍とナチス残党による、いわば代理戦争の形で決着がついた。

▼この戦いに、自主的に参加した日本将兵は、法的には「脱走兵」扱いとなった。この戦い後、日本に復員した将兵たちは、共産主義政府の独立を支えたということで、ベトナムではいまだに救国の英雄だが、帰国した日本では冷遇され、白眼視された。

▼日本軍将兵によって訓練された北ベトナム軍は、その後、完全にフランス勢力を叩き出し、代わりにつくられた南ベトナム政府軍と、泥沼の内戦に突入。さらに南ベトナム軍には米軍が加勢し、世に言うベトナム戦争が激化した。1975年4月30日、疲れ果てた米軍が撤退し、南ベトナム政府の首都サイゴンが、ついに北ベトナム軍によって陥落。日本軍が無条件降伏してから、実に30年間の戦いであった。北ベトナム軍の兵士はみな、旧日本軍将兵たちのいわば「教え子」たちだった。日本軍は太平洋の仇敵に対し、ベトナムで一矢報いたとも言える。

▼ホーチミン市西北部のホクモン県アンフードン村の水田には、村の守り神として大切にされている二つの大きな墓碑がある。それらは1946年2月のフランス軍来襲に際し、まだまったく実戦経験のない村のゲリラ兵団を逃がすため、身代わりとなって、単独で白兵戦を強行し、戦死した日本兵2名の墓だそうだ。その一人は、ハンチョー(班長)と呼ばれていたことから、将校であったらしい。第二次大戦終結直後の、いわば権力の空白地帯で起こった蜃気楼の中に、傭兵たちの挽歌が聞こえる。

増田経済研究所
「日刊チャート新聞」編集長 松川行雄




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